音としたことが…水のようだ。 | SZ

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とある音楽家の地球生活のカケラたち

$板東靜 - Listening is Believing -

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水のようだ。


入れた器の形に自在に変化するが、それが水の形ではない。

時に、

海の波、川の流れ、滝の水しぶき、降り注ぐ雨、ひとしずくの涙、

になる。


それは大気中に満ちている、水蒸気のよう。

あるいは、

踏み固められた雪の道であり、

突き刺さる氷の矢であり、

風にさらされ造られた美しく不思議な雪の造形である。


水蒸気はやがて、雲となり、

大地に雨を恵み与えて、この星に染み渡り、

万物を活かし、時に殺し、潤わせて、

川や海へとなり、また空へかえる。



「循環」。



おとついのステージタイトルは、「循環するアジアの音」。

文化やアートと’水’はよく似ている、と思う。

器や姿は色々で、

時に、みえたりみえなかったり。きこえたりきこえなかったり。

そして我々を生かし、循環する。



「音楽」でなく「音」とした。

虫の声に聴き入るのは、世界で日本人とポリネシア人だけだ。

ちっぽけなもの、身の回りの自然を尊ぶアジアのユニークな感性。

人間が生み出したものではない、人が管理していないものを、

美しいと思う、慈しむ感覚、というのは西洋の人々には理解しがたい。

(それは’ししおどし’と'噴水’にみてとれる。

水は上から下に流れる、その自然の摂理をそのまま受け入れている’ししおどし’と、

重力に逆らい、人間の望んだ形にあてはめつづける仕組みの'噴水')


アジアを奏でようとするなら、

’無意識に宿る、神聖な自然の一部として生かされている感覚’を外す事はできない。

だから、それは音楽と呼ぶよりも「音」とした。



……「自然保護っていうときに、ドイツ人と話すと全然かみ合わないんですよ。

彼らは自然をコントロールしようとするけど、僕らはコントロールしたくない、

しない場所を作ろうと思うんですよ。

欲で汚さない場所を。」 宮崎駿 ……




循環している。

形はあるようで、ない。ないようで、ある時もある。

やはり水のようだ。

いつか必ず終わりがくる、魂の乗り物としての肉体には「死」が訪れるという絶対。

スタイルや形態も、時と場所に伴い変わっていく。

だから、器から器に、呼吸をするように、うつしかえて命を伝えていく。



生物のプログラムにオスとメスの性別ができたとき、

それと同時に個体の死が生まれたという。

自分の肉体、今ある器は必ず滅びるけれど、

DNAや文化や思想や叡智を、

次の命へ伝え、受け継ぎ、バトンタッチする。

これは宇宙のルール。(参照:右矢印赤いランドセルの暴力)


そう考えれば、循環するアジアの感性は、とても理にかなっていると思えてこないだろうか。

近代の科学技術でやっと明らかになった多くの事が、

古代の文明や叡智では大昔から当たり前の事だった…なんて事象は数えきれないくらいある。



自然と共に。

その水が美しいのは、

殺菌消毒されてバクテリアひとつ住みついていないからではないだろう。

それを知っているのが、アジアであり、

そこで聴こえるのが「循環するアジアの音」。

(参照:~浄・不浄!? キレイの感覚~)


「死」が、「永遠」にスポットライトをあてる。

循環して巡る、まるで水のような'それ'。



日本人にとって水とは。

こんな小さな日本国に、

素晴らしい聖地、滝、美しい湧き水、温泉が驚くほどたくさんある。

昔からその恩恵を受け、祈り、守ってきた我々の血が、

意識しなくても確実に流れている。

だけど最近は、水はタダで、無限に勝手にあるものだと、大切にされない。

日本の多くの水源地が外国に売却されても無頓着。

森や川や生き物すべてがつながって奇麗な水の恵みがあることを忘れかけている。


文化も、同じ。

タダで勝手にあると思っているから、

どんどん安っぽい汚れたものばかり垂れ流す。

中身がからっぽの即席大量生産の器だけが溢れる。

守るべき、あまりにも尊い美しいもの悲鳴が埋もれかけている。


水のよう。

音としたことが…水のようだ。



だけど「循環」しているから。

姿形を変え、血として息吹として、必ずいつもそばにある。

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Bando Shizuka/