最近、あるところでご一緒した年上の方がお祈りの話をしてくれました。
彼女はキリスト教徒で、先だってから夫が病気になりともに闘病中です。
その夫とともに毎朝、二人のお祈りを神様に捧げるのだそうです。
そのお祈りの言葉を聞いて、私も不意にうるっとしてしまいました。
私は長年世俗で暮らしてきた不信仰者ですが、
やはり自分や親しい人が病のなかに投げ込まれたとき、
死に直面したときは、神に頼れたらいいなと思います。
病や死は、自分の力をはるかに超えたことだとつくづく思いますから。
まあ現状は、私などはたいがいお医者にかかればなんとかなって、
のどもと過ぎるとけろっと忘れてしまうのですけれども。
それでもどうしようもないときも、いずれ訪れるでしょう。
きちんと病院に行き、自分のできることをしてそれでも、
あとは何かにお委ねするしかない事態が。
そんなときに、彼女のようにお祈りの宛先というか、
信じる神様があるというのは、いいなあと思いました。
もちろん神様ならなんでもいいわけではありません(笑)
すべての人を救ってくださる愛と力をもち、
へんな搾取団体がくっついていない神がいいですね。
思い返せば、父が亡くなる前後の数年は、
私もずいぶん熱心に教会へ行き、教えを乞うたものでした。
また、父の大本の問題はアルコール依存症だったので、
それ系の家族のためのケアにもかなり通いました。
そのどちらでも私が学んだことは結局、
「私にはどうしようもないのだ」ということでした。
ただ、私たち人にはできないことも、
神がよきに計らってくださるという空気感というか信仰は、
少なくとも私が好んだ教会の先生方には共通して感じられました。
私自身に信仰はないけれど、そういう先生方に接していると、
少しはそんな気分に染まって苦痛が和らいだのを覚えています。
あの「ニーバーの祈り」も、ずいぶんと心に唱えたものでした。
「神様、私たちにお与えください。
変えられるものは、変えていく勇気を。
変えられないものは、受け入れる冷静さを。
そしてふたつのものを見分ける賢さを」
この「神様」とは何であるかそのときも今もわからないけれど、
ここで乞うているものが自分で獲得する類のものではなく、
与えていただくものであることはわかりました。
そして、私にはとくに後半の「冷静さ」と「賢さ」が欠けていました。
依存症の研究&臨床で有名な精神科医の斎藤学先生がどこかで
「人が絶体絶命に陥ったとき、口をついて出るのは
『おかあさん、助けて』か『神様、お助けください』だ」と言っていました。
私にはどちらも言えません。
いずれ、神様くらいはなんとか折り合いをつけておけたらいいなと思います。