先にご紹介したマルガレーテ・ブーバー=ノイマンには、ほかにもいくつかの著作があります。そのひとつ『スターリンとヒットラーの軛のもとで』には、JWについてより詳しい描写がありました。なおかつ、その本をものみの塔が大々的に引用した記事があるのです。
その記事をいただいて読んだところ、大変興味深かったので少しずつご紹介していきましょう。
ものみの塔81/9/15「信仰には実際的な価値があります!」という記事です。導入部分で
──ナチの強制収容所で人々は戦りつを覚えるような体験をしましたが―そして 恐らく,人々がそうした体験をしていたからこそ―信仰に真の実際的価値がある証拠をこ こに見いだせるのです。わたしたちが個人的にこうした収容所の生活を経験することは恐らくないかもしれません。しかしそこでの経験 から教訓を学び取ることができます。(ものみの塔81/9/15より)
と、強制収容所の経験に学ぶ意義を語ったあと、実例について述べていきます。
「多くの人が信仰を失う」という節では、「著述家フィリップ・ ヤンシー」、「エリー・ ビーゼル」、「ハリー・ J・カーガス」の言葉として、ユダヤ人と一般クリスチャンの絶望感が描かれます。
──少年が絞首刑にされるのを目撃したエリー・ビーゼルは,その時どのような感情に襲われたかを語っています。親衛隊員が収容者たちを絞首台の前に集めました。縛り首にされ息も絶え絶えの少年を見て収容者の一人 は,「神はどこにいるんだ」と叫びました。ビーゼルはこう語っています。「私は自分の体 の中で叫ぶ次のような声を聞いた。『神はど こにいるって? ここにいるんだ,この絞首台 の上で縛り首になっているんだよ……』。(ものみの塔81/9/15より)
「神はこの絞首台 の上で縛り首になっている」という表現は、「神は死んだ」という意味なのでしょうか、それとも「神はともに苦しんでいる」なのでしょうか。ものみの塔はおそらく前者としているようですが、私は後者を採りたいです。ただし、引用元の文章を読んでいないので、「エリー・ ビーゼル」がどちらの意味で書いたのかはわかりません。
この著者は日本語で一般的に「エリ・ヴィーゼル」と表記されるユダヤ人作家で、正統派ユダヤ教徒のようです。代表作はアウシュビッツでの体験を描いた『夜』。というと、名前くらいは聞いたおぼえがある方も多いのではないでしょうか。
少し検索してみると、ものみの塔の引用と同じ個所について考察した記事がありました。
http://homepage3.nifty.com/higashiyahata/pages/message/tokuden01-2.html
──「神様は、どこだ。どこにおられるのだ」。
これこそが苦難の中の人間の問いである。ヴィーゼルは、アウシュビッツという地獄で問う。「神様は、どこだ。どこにおられるのだ」と。・・・(中略)・・・
その地獄の問いの中でヴィーゼルが最後の最後に、それでもなお私たちに与えた答え、あの地獄の只中でたどり着いた最後の答えは
「神はおられる、神がおられるとするならば、あの子と共にロープにつるされておられる」。絞首刑の台、そこに神はおられる。いや、そこに神はいてもらわなければならない。
神は、あのもがき苦しむピーペルと共に神は苦しみ、死ぬのだ。
地獄としか言いようのない収容所の絞首台に神がおられる。
(東八幡キリスト教会 「神はどこにいるのか-闇の中で」より)
キリスト教の宗教者の視点による解釈として興味深いです。