さて、もうひとつのエピソードです。

 

著者やミレナ達は、強制収容所のなかでも、わずかな機会をとらえて他人の助けになるように動いていました。そうした行動のひとつが監視役ゲシュタポの逆鱗に触れ、著者は懲罰房にぶちこまれます。そこで待っていたのは、食事断ちの刑でした。食物を与えられない日が続き、7日目にようやく食事。その後は4日目ごとに食事。飢えと寒さで著者を苦しめるのがゲシュタポの意図でした。

 

わたしがよく知っていたふたりの聖書研究派の人間が、この監獄で看守として働いていた。毎日午前中に独房に灯りがつき、ひとりのエホバの証人が、独房の掃除のためのほうきとちり取りを無言で渡す。彼女はまるで同情の仮面をつけているかのように、苦悩のために口角を下方にひいて、無表情な血の気のない顔をしていた。二、三分もするとまたその道具を受け取りに戻ってきた。彼女になにか、多分パンを一切れほしいぐらいはいうことができただろうが、頼まれたら大変とばかりに彼女は大急ぎでドアを閉め、明かりを消した。いやはや、聖書研究派はKZ(注:強制収容所)の職務を遂行することにおいて実に申し分なかった。冒険をするとしても、かれらはただエホバの利益のためだけで、収容者のためにすることなど一度としてなかった。

 

ふたりのJWは著者に同情の念は抱きながら、彼女のために労を取る(=危険を冒す)ことはいっさい拒否する、という意志を態度で表明していたようです。

 

しかしある朝、いつものパンの配給がおこなわれる前に──わたしはちょうどそのとき、禁じられていたおしゃべりのためにさらに三日間の食事停止の罰を受けていた(注:JWではなく、ほかの旧知の囚人との会話)、そのため半ば意識を失って床に横たわっていた──ドアの垂れ幕が開いて、興奮した声をおしころして、「グレーテ、早くきて、ミレナに頼まれたものをもってきたのよ!」というのが聞こえた。わたしは四つん這いでドアのところへいき、上の方を手探りした。するとその聖書研究派はふるえながら服の襟ぐりから小さな押しつぶされた包みをひっぱりだした。「早く取って、ミレナがあなたにくれぐれもよろしくって。見つからないように隠して、お願いよ!」


なんと親友ミレナが、しぶるJWをどうにか説得して著者のために食料を届けさせたのでした。包みのなかみは、一握りの砂糖とパン、2個の菓子。ミレナのもとに収容所外部の身内、おそらく父から届いた包みに入っていたものでしょう。「ミレナはわたしのことを忘れていなかった」と、著者は涙します。しかし、それも度々は続きませんでした。

 

またそっと鉄の扉の垂れ蓋が開けられ、例の聖書研究派が小さな包みをなかへ差し入れた。息をころし、顔をゆがめてささやいた。「グレーテ、お願い、ミレナにいっていいかしら、とても危険なので、包みをもらうことをあなたが望んでいないって。ねえ、わたしにそう言づけさせて?!」不安のためにあまりにも哀れっぽくふるえている彼女をみて、わたしは「結構よ、これ以上なにか差し入れることは、ミレナにやめさせるわ!」というより仕方がなかった。

 

 

やはりJWたちは、危険なお使いはどうしても嫌だったのでした。それにしてもミレナは、このような人たちをどのように説得したのでしょうか。

 

やがて十五週にわたる暗室禁固が終わったとき、ミレナは、あのふたりの聖書研究派看守を彼女がどのように強要して説得したか、話してくれた。彼女はこのふたりに、わたしにパンをもっていってほしいと路上で数回にわたって懇願したが、むだだった。ふたりは断固として拒否し、逃げていった。それからミレナは、ある夜かれらのブロックへ行った。

 

囚人が所内をかってに出歩くことは規則違反で、しかも夜間となればなおのこと。見つかればおそらく双方に厳罰でしょう。しかし、ミレナは極悪非道なゲシュタポにさえ一目置かせるほどの人物でした。収容所規則を怖れて動けないわけがありません。一方のJWたちは…

 

ふたりはそこに横になっていて、もはや逃げることができなかった。ふたたびミレナは真剣に頼みだした。ミレナの頼みに抵抗するには、石のような心臓が必要だった。ところがエホバの証人たちは依然として心を動かさなかった。頑としてつっぱねたのである。わたしが過去二年間に聖書研究派収容者のためにしたことや、危険を冒してまでしてやったことすべてを突きつけて懇願したにもかかわらず、いっこうに反応がなかった。

 

ちなみに著者は、禁じられていた聖書研究を宿舎で行えるように便宜を図ってやるなどして、エホバの証人たちからおおいに感謝されていました。でも、かれらにとってはそんな過去の恩義より、禁を破ることで目前に予想されるナチスの懲罰の恐ろしさのほうが勝るようです。

 

そこでミレナは、威嚇し復讐する神エホバのことばに訴え、かれらに隣人愛に関する章句を読誦した。そして、かれらが心を硬化させつづけたら、どんなに恐ろしいことが彼岸に待ち受けているか、鮮やかに描いてみせた。これが、かれらふたりの聞きとれる声だった。ふたりはめそめそ泣きながら、わたしのための食料を受け取ったのである。

 

結局かれらを動かすものは恐怖、だったのですね。

 

 

(引用は、マルガレーテ・ブーバー=ノイマン著・田中晶子訳『カフカの恋人 ミレナ』平凡社、より)