しばらくご無沙汰しておりましたが、JWが主人公の映画「神のゆらぎ」を観てきました。すでに評判が立っていますが、JW関係者にとっては、輸血拒否のみならず忌避も出てくるし、「自分さえ救われればいいのか」という問いも設定されていて、わくわくする映画でした。よく取材してつくられたなあ、と思います。
ストーリーをざっくりいうと、現役JWの看護師姉妹を主人公として、白血病を患うその恋人(これもJW)や、墜落する飛行機に乗り合わせる人々(こちらは世の人達)のドラマが重ねられていきます。
上映日がごく限られていましたが、新宿シネマカリテではアンコール上映が決まったそうです。もとJWの方におすすめなのはもちろんですが、現役JWさんにもぜひ観ていただきたい映画だなあ、と思ってしまいました。組織的には、観るべきでないでしょうけれど…。
まあ、めいめい好きなものを観て好きなように感じるものですけれども。それでも、思うくらいは、このくらい言う程度は私の勝手かな~。
誘ってくれた友人と、映画のあといろいろ話しました。
そのなかで、「JWにある悪いことは、世の中にもある」という話が出たのですが(私は、JWはその悪に大義名分を与えて増長させるのがよくない、悪はどうしようもなく存在するものだけど、ドヤ顔で主義主張として掲げてよいものではないという立場)、「それでは一体JWのなにが固有の問題か」という話で、はたと考え込みました。
いろいろあるけれどなにが、と絞って考えると、やっぱり自分の関心事が浮かび上がる気がします。
私にとっての問題は、まず第一に「世界は滅びればいいけど、自分は救われたい」という考え方。ハルマゲドン後の楽園に入りたいという、JWの究極目標はそういうことだと私はとらえています。そういう心情は世間でも珍しくないし、自分だって実はそうなのですが、でもそれを到達目標として(しかも神聖視して?)追い求めるようなものではないはず。現実はそうなってしまうとしても、それでいいとは決して思えないです。神がそういうものであるなら、私は神を軽蔑します。理想や目標はもっと高いものでありたいです。そして、実現するかどうかはさておき、理想や目標がどういうものかは、その人の人となりや、社会や他者との関係のもちかたに反映されるように私は思っています。まあ簡単にいって、自分さえよければいい、とドヤ顔で開き直る人はどうしても怖いです。
第二に、とくにその映画を観たあとということもあり、JWが信教・信条の自由(だから輸血拒否なども好きにさせろという言い分)を掲げながら、「やめたい」という人の信教(あるいは輸血/献血したいという心情)の自由は、忌避をもって脅して阻害することは釈然としないと思いました。
たんに自分の信仰で輸血拒否するのは個人の自由かもしれません。しかし、コミュニティ内の人間が輸血/献血しようとするとき、それを止めろと言うのみならず忌避という実力行使をもって脅しや制裁を加えることは、自由の侵害、信条の強制ではないか…。しかしそれでも、そのようなコミュニティを結局本人が選んでいるということは、つまるところ本人の選択なのだろうか…とも思えます。
第一の点は、かれこれ四半世紀前に私が脱JWするときの争点でもあり、自分の問題として長年考えてきたことですが、第二の点はここ数年思ったことですし、自分ごとではない気がするので(自分の父にかかわることではありましたが)まだあまり考えられていません。
ともかくも、いろいろと刺激される映画で楽しかったです。カナダ映画ですが、フランス映画っぽい感じです。いずれDVD化されたら、またゆっくり観たいと思います。