思えば、JWでは禁令下での宣教とか、やがて来る大患難で迫害に遭う、といった話がよくされていました。ナチスの迫害下で、死に至るまで忠節を守り抜いた証人の模範に倣い、私たちも大患難での迫害に耐えないといけない──そう言い聞かされて育ってきました。
どんな迫害に遭うのだろう、年鑑に書いてあるような迫害か、そういう目に自分もやがて遭うのだ。何と恐ろしい。拷問にあわされるより、一思いに死なせてほしい──などなど子どものころから考えていたわけで。迫害ってわりと身近な話題、関心事だったのですね。
(いまのJWも、アメブロ界隈で著名な某姉妹のブログを拝見したりすると、そういうお話にドキドキされている様子がかいまみえますが)
遠い国や近い将来における政治的な大迫害のほかに、反対者のご主人からの迫害とかの話もありました。(そういうった迫害のもうちょっとスケールダウンしたものを「反対」と言った気もしますが)
そういう話題が豊富なJWのなかで育って、「迫害」については、私もいろいろ思うことはあったはずでした。
私が『沈黙』を読んだのはまだJWを抜けて日も浅い頃で、JWで聞かされた怪談やそこから培ったイメージを濃厚に、作品世界に投影したんだろうなあと思います。