なんだかんだで、映画『沈黙』を観ました。
ひとことでいえば、面白かった。2時間40分もの大作ながら、最後まで飽きさせない展開でした。
私が観た回は満席でしたが、長いエンドロールのあいだ席を立つ観客がほとんどいなくて、場内が明るくなって退席を促されるまで皆イスに固定されたように座っていました。
私としては、原作の小説から受ける何か厭な感じが映画にはなく、とてもすっきりした印象で映画館をあとにしました。厭な感じというのは、多分に私の私怨に由来するものだとは思いますが、あの小説を読むと「信仰に酔っている感じが気持ち悪い」とか、「勝手に死ねばいい」とか、何か負の感情が沸き起こってくるのです。
映画の印象がすっきりしていたのは、なんでかな~と思いながら振り返ってみます。
以下、ネタバレを含みます。
★キチジロー
私がそういう「厭な感じ」を受けなかった理由のひとつは、映画のキチジローの雰囲気にありました。
原作のキチジローは自称「弱い人間」で、キリシタンでありながら何度も踏み絵を踏みます。おまけに、仲間や神父を官憲に売ります。しかし、それでいて神父につきまとって「自分は弱いのだ」といって理解と赦しを請う、情けない人間です。
ところが映画のキチジローは、やっていることは同じなのですが、暗がりの中で目を輝かせ、自立した人間の自負を見せています。
キチジローを演じた窪塚洋介(「飛んだ人」というイメージが強いですが)は、映画のパンフレットで「神を信じることは、自分を信じることと同義だと思い、キチジローが弱い人間だとは最初から考えませんでした」と語っていました。
原作のキチジローもたしかに弱いというよりしたたかです。現実の弱者も、実は弱者なりにしたたかさを持っているものだと思います。そうして、したたかなくせに「弱さ」を看板いや印籠にして憐れみを乞う。それがまたしたたかさなのですが…厭らしい。
ところが映画のキチジローは、あくまで強い人間として立っていたので、そんなに厭な感じがなかったのでした。
ただ、キチジローという人物はあの厭らしさあってこそなので、窪塚のキチジローはすっきりしているけれど逆に印象が後退した感じも。ほかの俳優さんが厭らしいキチジローを演じたらどうだったかなとも思います。
でも、キチジローの野生味、ほとばしる動物的生命力、生存本能は、窪塚だからこそ体現されていたものでもありました。