自分の思いと異なる事実は、にわかには受け入れ難いものである。
昔、あるお嬢様大学を卒業した美人さんは、医師と結婚した。
いかにお嬢様大学と言っても、みんながみんな医師と結婚できるものではないので、彼女はいわゆる勝ち組であった。
ところが、彼女に生まれた子供が何かおかしいようだった。
不安を打ち消しながらも、彼女は懸命に子育てをした。
成長するにつれ、だんだんと形がはっきりしてきた。
いわゆる子供には障害があって、それは「自閉症」というものであった。
彼女は「そんなはずは有る訳がない」と取り乱し、なかなか認めなかった。
彼女が認める認めないに関係なく、障害はますますはっきりと形に見えるものとして表れてきた。
初めに、障害を受け止めて手立てを考え始めたのは、医師である父親だった。
その子なりの最善の教育に取り組む覚悟をした。
その取り組みに障がいとなったのは、母親であった。
「どうして? どうしてなの?」
「なぜ? 貴方と私の子どもなのに!」
答えのない問いを発してそこから、全然進まないのだ。
自閉症の理由なんて、誰にも分からない。
突然、子どもが障害を持って産まれてくる可能性は、誰にでもあるものなのだ。
彼女は「勝ち組」の枠を決めて、そこから出られず、自らを閉じ込めていたと思うの
だ。
彼女の枠とは、最大限広げても、例えばこんなものではないか。
(東大でなくとも、地方の私立大学でも良い。なんならFランでも仕方ない。)
(医学部でなくても、、、)
(スポーツや芸術の、取りえがなくても、、、)
「障害児」や「自閉症」と言うのは、彼女にはものすごい破壊力だったに違いない。
しかし、さすが医師で冷静な父親がいて良かった。
少しづつ、彼女も障害を受け入れていったはずである。
(繰り返すが、障害は病気ではなく、治ると言う種類のものではない)
母親が子供を丸ごと受けとめ愛していくことで、子どもは将来的に随分と生きやすくなる。
あれから20年以上が経つ。
どんな子供に育っているか、一度会ってみたいものである。