支えてくれて、ありがとう | 犬達と青い海と卵巣癌の私

犬達と青い海と卵巣癌の私

夫と犬二匹と暮らしています。
卵巣癌サバイバー17目です。再発手術を何度も繰り返し心身ボロボロ。次再発した場合には生きる為の辛い治療は受けないと決めています。時には辛い気持ちも吐き出してしまうかも知れません。なるべく楽しいブログになれば良いのですが^ ^

1979年の事。

 

母は当時56歳、胃癌が発見され、

 

手術を受けたが、肝臓の深部まで転移が有り、

 

癌一部分も取り出す事が出来ず、お腹を閉じた。

 

そして、母は癌が発覚してから、9ヶ月後57歳で亡くなった。

 

前の日まで、自力でトイレまで歩いて行き、

 

オムツをしたのは、亡くなる前日の夜だけ、

 

翌朝、暁の空に、まだ星が見えたあの空。

 

その頃、母は亡くなった。

 

 

 

亡くなるまで、

 

母は、枕元に居る私の方を向き、目から涙が流れていた。

 

私や家族が話し掛けても、もう、言葉を発する事は出来ず、

 

微かに、うん…と頷くだけになっていた。

 

そんな状況になっても、世間知らずの私は、

 

「母は、また元気になる」と信じていた。

 

 

 

しかし、

 

もう世界中の何処を探しても、母を見つけ出す事は出来ないのだ。

 

絶望の日々が続いた。

 

 

あの日から、44年の月日が流れた。

 

 

母が、息を引き取ったと知った時、

 

身体の震えが止まらず、一人で立って居られず、

 

姉に抱きついたと言うかしがみついて離れられなかった。

 

 

あの頃は、PETCTは勿論、造影剤を使ったCTも無く、

 

お腹の中の状態を知るには、手術しかなかったのだろう。

 

 

亡くなる日の前日、まだ会話が出来た時、

 

母は、

 

母自身が居なくなってから、かりんこがお嫁に行くまで、

 

なんとか皆んなで協力して、かりんこを支えて上げてくれと、

 

必死に伝えていた。

 

父も居るのに、何故か姉兄達に伝えていた。

 

 

母を亡くして以降、私を支えてくれたのは、

 

やはり、姉だった。

 

義理の兄も物静かな人だったが、いつも優しかった。

 

そして、姉の娘、(姪っ子)の存在も大きかった。

 

姪とは7歳しか離れていないので、妹の様な存在。

 

テレビ電話なんか始めたら、3時間位話し込んでしまう。

 

姉とも姪とも、時々喧嘩なんかするけれど、

 

直ぐ元通りになれる。

 

義姉とか息子のお嫁さんと喧嘩なんかしたら、

 

絶縁間違いなしだろう。

 

勿論、兄達にも感謝して居る。

 

結婚してからは、勿論夫に大感謝。

 

 

しかし、今もこうして居られるのは、

 

母の様に接してくれた姉と妹の様な姪っ子のお陰なのだ。

 

その姪が先日新居に泊まりに来た。

 

私の無体力も分かって居るから、

 

外出しても、ゆっくり、私に歩幅を合わせてくれて、

 

 

 

初日は

横浜ホテルニューグランドでナポリタンを頂き

 

 

山下公園でのんびり🙂

 

 

バルチック艦隊を撃退した艦船三笠を見物

 

写真が見つからず…残念🥵

 

殆どは、家でのんびりして居たのだけど😛

 

紫陽花が見たかったので、

 

長谷寺までお出かけ

 

 

 

 

 

カフェにも☕️

 

 

 

もう直ぐ64歳になろうとして居る私。

 

母は7歳も年下になってしまった。

 

「東京だよおっかさん」

 

しみじみ、素晴らしい歌だと思う🎤🎵

 

 

母の様に、弱音を吐かず、最期まで自分で自分の事をやれたら良いのだけれど。

 

 

 

最後は自作のソファーカバー🛋️

 

 

 

では、また🤚