1979年の事。
母は当時56歳、胃癌が発見され、
手術を受けたが、肝臓の深部まで転移が有り、
癌一部分も取り出す事が出来ず、お腹を閉じた。
そして、母は癌が発覚してから、9ヶ月後57歳で亡くなった。
前の日まで、自力でトイレまで歩いて行き、
オムツをしたのは、亡くなる前日の夜だけ、
翌朝、暁の空に、まだ星が見えたあの空。
その頃、母は亡くなった。
亡くなるまで、
母は、枕元に居る私の方を向き、目から涙が流れていた。
私や家族が話し掛けても、もう、言葉を発する事は出来ず、
微かに、うん…と頷くだけになっていた。
そんな状況になっても、世間知らずの私は、
「母は、また元気になる」と信じていた。
しかし、
もう世界中の何処を探しても、母を見つけ出す事は出来ないのだ。
絶望の日々が続いた。
あの日から、44年の月日が流れた。
母が、息を引き取ったと知った時、
身体の震えが止まらず、一人で立って居られず、
姉に抱きついたと言うかしがみついて離れられなかった。
あの頃は、PETCTは勿論、造影剤を使ったCTも無く、
お腹の中の状態を知るには、手術しかなかったのだろう。
亡くなる日の前日、まだ会話が出来た時、
母は、
母自身が居なくなってから、かりんこがお嫁に行くまで、
なんとか皆んなで協力して、かりんこを支えて上げてくれと、
必死に伝えていた。
父も居るのに、何故か姉兄達に伝えていた。
母を亡くして以降、私を支えてくれたのは、
やはり、姉だった。
義理の兄も物静かな人だったが、いつも優しかった。
そして、姉の娘、(姪っ子)の存在も大きかった。
姪とは7歳しか離れていないので、妹の様な存在。
テレビ電話なんか始めたら、3時間位話し込んでしまう。
姉とも姪とも、時々喧嘩なんかするけれど、
直ぐ元通りになれる。
義姉とか息子のお嫁さんと喧嘩なんかしたら、
絶縁間違いなしだろう。
勿論、兄達にも感謝して居る。
結婚してからは、勿論夫に大感謝。
しかし、今もこうして居られるのは、
母の様に接してくれた姉と妹の様な姪っ子のお陰なのだ。
その姪が先日新居に泊まりに来た。
私の無体力も分かって居るから、
外出しても、ゆっくり、私に歩幅を合わせてくれて、
初日は
横浜ホテルニューグランドでナポリタンを頂き
山下公園でのんびり🙂
バルチック艦隊を撃退した艦船三笠を見物
写真が見つからず…残念🥵
殆どは、家でのんびりして居たのだけど😛
紫陽花が見たかったので、
長谷寺までお出かけ
カフェにも☕️
もう直ぐ64歳になろうとして居る私。
母は7歳も年下になってしまった。
「東京だよおっかさん」
しみじみ、素晴らしい歌だと思う🎤🎵
母の様に、弱音を吐かず、最期まで自分で自分の事をやれたら良いのだけれど。
最後は自作のソファーカバー🛋️
では、また🤚