健康的な人間関係って。 | マイノリティのお話

マイノリティのお話

ずっと人前で自分を出せない、自分でいてはいけないのだと思ってました。カウンセリングを受けたら、育った環境に原因がある事がわかりました。

私以外全員ASDだった。

ASDについて勉強したら、今まで見えてなかった事が見え始めた、そんなブログです。

こーいうネタは盛り上がりますね。

 

もうちょっと掘り下げます。勝手に。自分の整理のために。

 

 

PodCastの姉さん・兄さんたちがよう言うてるやつ。

 

「子供の頃のトラウマを抱えている人達は、大人になっても同じような環境に身を置きやすい。人間は、自分が慣れ親しんだものに惹かれる習性があるから、トラウマを抱えるほど傷つけられた環境だとしても、そっちの方が心地良くなってしまう。むしろ、正常で健康的な人間関係が心地悪くて不安になったり、何も起きな過ぎて飽きてきたりしてしまう。あなたがトラウマを乗り越えない限り、正常で健康的な人間関係には身を置けないのです」

 

 

これについて、ぽねちゃんがコメントしてくれている亊に激しく同意・・・。と同時に、私は思うのです。

 

もともと、私の家族は私以外全員ASD寄りで、それに困っていた亊に気が付いた・・・という所からこのブログはスタートしているのだけれど。何年か書いてきて、ASD、ADHD、HSP、さらには愛着障害やナルシストについても自分なりにいろんなものを呼んで、実体験で少し知って(マッチングアプリさまさまやな)、明確にわかった亊がある。

 

こういうの全部、「100ゼロ」じゃないし、「白黒」でもない。「アスペルガー」「発達障碍」「HSP」「愛着障害」「ナルシスト」が、パートナー・家族・友人として、全部ダメ、無理、ナシ・・・って亊ではなく。程度の問題だし、拗らせ方の問題だという亊。そして、いつも常にずっとダメなわけでもなくて、良い時もあり、一緒に居てはあかん時もある。

 

 

 

 

大事な亊なので、もう一度、言いまーす。私自身に言い聞かせるために、言いまーす。

 

アスペルガー、発達障碍、ASD、ADHD、HSP、愛着障害、ナルシスト、アダルトチルドレン、鬱症状、・・・その他もろもろ、脳のしくみや、過去の出来事、環境、トラウマによる心の病、思考の傾向・・・全部、「あるか、ないか」の二択ではない。どれかがあるか、ないか、という選択肢性でもない。人間は、長期的な環境どころか、その場の一瞬のシチュエーションや出来事ですら、その時々や後々の言動に影響を受けたりするもの。だから、「あの人は発達障碍だから、あかん」とか「愛着障害があるから、無理」とか、そういう亊ではないのだと思う。

 

私がブログで、本来医療現場で使われるような言葉をあたかも知ってるかのように、あーだこーだ書いているのは、あくまでも、私が、私のために、人と心地よい距離感をつかむため。

 

「この人とは、相容れないわ。できるだけ関わらないようにしよう」であったり、「この人、こーいう時には上手くいくわ。でも、こんな状態の時には距離を置こう」だったり、「珍しいな、この人がこんな状態なの。こうしたら、楽なのかな?」だったり。その時々に、私が相手と心地よい距離感を保つために、勝手に言うてる亊。それを、相手のいい時に「利用している」と思われようと、それで構わない。だって、しょうがない。「利用する・される」という考え自体も、脳の仕組みや考え方の傾向によって違うのだから。

 

自分が心地良ければ、それでいいの。ただ、自分が心地悪いと思った時には、その相手が誰であれ、上手い亊距離を保つ強さを備えられれば、よいな、と思う。

 

 

いや・・・私の場合、血のつながった家族なので、そう簡単にはいかんのやけれど・・・。できる限りね!!!!!

 

 

 

 

ぽねちゃんや、ともさん、しのばさんもおっしゃるように、私も多少の毒がある人じゃないと、人間として惹かれない。どこか秀でた人や、カリスマ性がある人、興味を惹かれる人は、大概その分どっかがへっこんでいる人。そして、そういう人に私は惹かれるし、そういう人に私はなりたいし、ありたい。

 

そもそも、私の場合、今でも家族は生きていて、今でも、奇天烈こじらせおかんや、その感じを丸侭継いだ感じの妹ちゃんも居て、そして高齢になっておとうも交わって、もう意味がわからん亊になっている。そんな家族と離れて暮らしていても、毎日のように連絡を取らなくてはならず、家族とではなくても、その家族を支える人達との真ん中でコミュニケーション係をしている。

 

こんな人生歩んでいる以上、完全なトラウマ克服なんて無理(笑)。

 

そもそも、トラウマの克服なんて、「自覚」をして、自分で意識的にトラウマに流された選択肢を選ばないようにしていく亊の連続なのである。それを一人で「自覚」して「律する」亊が難しいから、定期的にセラピストにかかるわけで。今、現状、毎日、地雷が埋まっている家族とやり取りをしなければならない状態で、「地雷を踏むのを気にせずに、自分を優先した選択肢を」とかまず無理。

 

「家族神話」が強い、現代社会で、家族丸侭捨てる・・・ぐらいの亊をしないと、トラウマ克服なんてできないと思われる。それなら、いっそ、トラウマはトラウマとして、自覚しつつ。あとは、「どの程度まで受け入れるべきか」を検討するのが建設的なのではないかなぁ、と思う。

 

 

私が相手の毒部分をどこまで許容できるのか。そして、相手も私の毒部分をどこまで許容できるのか。何とか、その「許容範囲」が同じぐらいだと、上手く行くのかなぁと思う。

 

 

Bの場合・・・。キレた時、えげつないですね(笑)。正直、今後、彼と対峙した時に、あんな状態になったら、私はうまく対処できる自信はない。何しろ、B、190cm以上ある長身なんでね・・・。そんな人が大きな声で怒鳴ったら、「ひぃー」となって、余計にトラウマになりそう。でも、逆に、実際に面と向かってない場合、3回目ぐらいでもう、既に私は慣れてしまった。

 

攻撃的な言葉を長文メッセージで送ってくるのに対して「わぁ。怒ってはる~。今回は、なんのフラッシュバックやろう」ぐらいの感じに受け取るようになった。最初は「何を言ってるの?この人?」と思いながら、いちいち言葉に反応してしまったのだけれど。この人ASD寄りやな・・・と気が付いてからは「ok」とか「I see」とか適当な相槌だけ返したり、ヴォイスメッセージで「うっける~(笑)」というスタンスで「なんか怒ってるぅ~なんでぇ~(笑)」と指摘してみたり。たまに、なんか機嫌悪いから八つ当たり相手探してはるんかな・・・みたいなメッセージすら送ってくるけど、そういうのは既読・ガン無視。

 

Bも私のそんな返しに慣れてきたのか、ここ数回は途中で「あ。相手間違えた」とか「やってもーた」と思うのか、「ごめんなさい」とは言わないものの、「ミーティングだらけで仕事が忙しくて」みたいな言い訳をしてくるようになった。私も、Bの返信速度と言葉の選択肢で察せるようになってきたので(HSP能力万能だな)、少しでも「あ。なんか嫌」と思ったら、めっちゃ心理的な距離を取る(敬語・ミニマルな返信)。

 

というわけで、ここ2か月ぐらいで、このぐらいの毒ぐらいなら、かわせるようになってきました(笑)。もちろん、だからBとどうこうって話ではなく。

 

 

健康的な人間関係は、自分の物理的距離と心理的距離を調節して取れる人とであれば、築けるのでは・・・?と、最近思い始めたきっかけである。ぬこさんが前に言っていたように、Bが、自覚して学べるASD寄りさんであれば、まぁ、今後も付き合いは続くかな、と思う。

 

 

うちの家族みたいに、大こじらせしていたり、自覚もしなければ、学びもしない人々で、かつ家族という繋がりがあって、心理的な距離を取れない人々とは、健康的な人間関係は永遠に築けないと思うけれど。

 

 

トラウマの克服自体も「した!してない!」では、ないのだと思う。私は、半分ぐらいかなぁー。でも、もう半分ぐらいは、「どうか、発動しませんように。トラウマのリアクション、発動しませんように」と願いながら生きていきそうな気がするなー。