前回まで何回か、加害者へ連絡したことや、
そこから展開するENEOSのCSRを書きました。
今回「遺族の加害者に会うこと」について、
もう少し思うところを書きたいと思います。
私が14年間、加害者に連絡しなかった理由。
それは単純に加害者に興味がなかったからです。
今までは、加害者周辺ということにからんで、
保険会社や医師界隈を散々からかいましたが、
(医師は今も絶賛からかい中。詳細は追って)
そればかりにずっと注力していた理由は、
やはりそうすることで二次被害を抑止でき、
世のため人のためとの充足感があったためです。
しかし加害者をつついても何も出てこないし、
本人がどう変わろうがそのままだろうが、
社会への影響などないと感じていたため、
加害者接触は優先度低のまま来ていました。
実際接してみて、やはり加害者はクズでしたし、
それ自体予想通りで、何の感慨もなかったので、
エネルギーを注ぐ価値もないだけの話でした。
ただ私みたく冷めた遺族ばかりではありません。
私は元々感情の温度の低い人間ですが、
そうではない遺族ももちろんたくさんいて、
加害者にエネルギーを費やす人も多くいます。
命日に必ず仏前に手を合わさせる遺族。
車に乗せ、事故現場に何度も連れていく遺族。
などなどなど・・・ほかにもいろいろ。
いろいろなパターンはありますが、
そのすべての心情は当然だと考えますし、
そこには理由も価値もあると思っています。
以前・・・かなり昔のことなので、
誰が誰に対してかも憶えていない話ですが、
加害者に連絡を取り続けている話が出て、
遺族でない人が、その当の遺族に対して、
「そんなことをして子どもに恥ずかしいぞ」
などと説教をかましていたことがありました。
そんな非遺族の説教を耳にしての感想は、
「部外者がエラそうに・・・何様?」
というものでしかありませんでした。
確かに遺族でない人からみれば、
加害者にエネルギーを注ぐ遺族の行動は、
何かを前に進められるわけでもなく、
コスパの悪いものでしかないのでしょう。
しかしそんな目的合理性やコスパを度外視し、
遺族には遺族にしかわからない情念や、
奥底で燃え続ける叫びの声があります。
それを理解できず、一笑に付すような人は、
そもそも遺族には関わらないでほしいし、
そういう場にも来てほしくないと思います。
SNSでただ加害者の実名を連呼する遺族も、
決して共感できるものではありませんが、
同様にその人なりの行動原理は想像できます。
きっと報道すらされなかった加害者名を、
SNS空間にひたすら刻み続けていくことで、
加害者の可動域を少しでも制したいのかと。
そんな思いは誰にも責められないはずです。
遺族には遺族にしか通じない行動原理がある。
それは目的合理性やコスパとは無関係で、
それを理由に否定や嘲笑などしてはならない。
そんな経済学的視点で遺族を測るべきではない。
それを書きたくてブログにまとめてみました。