遺族が加害者に会うことについて | 自転車に家族を殺されるということ

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2014年1月28日に判決が出て裁判は終わりましたが、私の交通犯罪遺族活動は続いています。

前回まで何回か、加害者へ連絡したことや、

そこから展開するENEOSのCSRを書きました。

 

今回「遺族の加害者に会うこと」について、

もう少し思うところを書きたいと思います。

 

私が14年間、加害者に連絡しなかった理由。

それは単純に加害者に興味がなかったからです。

 

今までは、加害者周辺ということにからんで、

保険会社や医師界隈を散々からかいましたが、

(医師は今も絶賛からかい中。詳細は追って)

そればかりにずっと注力していた理由は、

やはりそうすることで二次被害を抑止でき、

世のため人のためとの充足感があったためです。

 

しかし加害者をつついても何も出てこないし、

本人がどう変わろうがそのままだろうが、

社会への影響などないと感じていたため、

加害者接触は優先度低のまま来ていました。

 

実際接してみて、やはり加害者はクズでしたし、

それ自体予想通りで、何の感慨もなかったので、

エネルギーを注ぐ価値もないだけの話でした。

 

ただ私みたく冷めた遺族ばかりではありません。

 

私は元々感情の温度の低い人間ですが、

そうではない遺族ももちろんたくさんいて、

加害者にエネルギーを費やす人も多くいます。

 

命日に必ず仏前に手を合わさせる遺族。

車に乗せ、事故現場に何度も連れていく遺族。

などなどなど・・・ほかにもいろいろ。

 

いろいろなパターンはありますが、

そのすべての心情は当然だと考えますし、

そこには理由も価値もあると思っています。

 

以前・・・かなり昔のことなので、

誰が誰に対してかも憶えていない話ですが、

加害者に連絡を取り続けている話が出て、

遺族でない人が、その当の遺族に対して、

「そんなことをして子どもに恥ずかしいぞ」

などと説教をかましていたことがありました。

 

そんな非遺族の説教を耳にしての感想は、

「部外者がエラそうに・・・何様?」

というものでしかありませんでした。

 

確かに遺族でない人からみれば、

加害者にエネルギーを注ぐ遺族の行動は、

何かを前に進められるわけでもなく、

コスパの悪いものでしかないのでしょう。

 

しかしそんな目的合理性やコスパを度外視し、

遺族には遺族にしかわからない情念や、

奥底で燃え続ける叫びの声があります。

 

それを理解できず、一笑に付すような人は、

そもそも遺族には関わらないでほしいし、

そういう場にも来てほしくないと思います。

 

SNSでただ加害者の実名を連呼する遺族も、

決して共感できるものではありませんが、

同様にその人なりの行動原理は想像できます。

 

きっと報道すらされなかった加害者名を、

SNS空間にひたすら刻み続けていくことで、

加害者の可動域を少しでも制したいのかと。

そんな思いは誰にも責められないはずです。

 

遺族には遺族にしか通じない行動原理がある。

それは目的合理性やコスパとは無関係で、

それを理由に否定や嘲笑などしてはならない。

そんな経済学的視点で遺族を測るべきではない。

それを書きたくてブログにまとめてみました。