大きな流れがまた | 狂った日本の中で生きるチカラ

狂った日本の中で生きるチカラ

日本の社会に翻弄されて得た沢山の記憶と体験をこれから体験するかもしれない人のために在るべき姿。

上手くいく時はきっと上手くいく。
そしてそれは周囲のおおらかな意味での同意が伴うとその動きは加速したり一気に上昇するものだ。

そして、その流れに乗れずにいる人は必ず居て、そうした人は必ずと言って良いほどにいじけていて不幸と感じる出来事を他人に押し付け、自らの過去の正当性をやたらと主張する。

この心の動きは、その昔に私が体感し、実際にそのスパイラルに落ちていった経験からもハッキリと言えるし、実際に当地に移住してからの数年でもそういった人達を間近に見る機会を得る事で確信に変わっている。

ある意味で正と負のエネルギー対決のような状況だけど、正とされる側は確実に負の要素を排除する事で正のエネルギーの流れを途切れさせないように努力するので、負のエネルギーの方向性に気づけていない人は正のエネルギーには近づけない。
しかし、負のエネルギーホルダーは自らのせいではないと深く思い込んでいるために似たエネルギーを持つ負のホルダーと組み動く。そうなるとその負の中での正と負を争い分裂したり足を引っ張りあったりする。
そのコミュニティには近づきたくない。
よって、正と負のエネルギーは交じり合わなくなり更に負のホルダーは自らの負に気づくことなく落ちていくのだ。

このスパイラルを負のホルダーは自らの痛みで気づかなければならない。
上手く正のホルダーと関わり指摘を受けても聞く耳など持たない。何故なら自らは負のホルダーであるとは決して考えないからだ。
だから痛みを伴わないと自らが負である事に気づけずに更なる負の深みに落ちていくのである。

この仕組みは意外に日本人は教えられずに幼少期を過ごす。何故なら今の親世代はその価値観の大きな恒常性を知らされずにひたすら高度経済成長の中での依存で利用されてきた親の子供達であり、既にその価値観の存在すら理解もせずに親となった者だからだ。

この事に気づけるまで私も妻や子ども達、自分を信じてきてくれたスタッフや友人を沢山傷つけてきた。
不幸というものを直視出来ず、そのために自分がどうあるべきかも見えずに歩いてしまった。
不幸は不幸を呼び、更なる痛みを感じる深みに嵌るのだけど、その直前までの痛みに慣れてしまい、また自らの負のエネルギーを直視していないので社会のせいや他人のせいにして気づけずにいたのだ。

その想いを妻に泣きながら話し、そして私はその時までにあった自分の過去やステータス、そしてこだわりを全て捨てて一番そうでありたくない姿になった。そしてその中で喜びや充足感を得直す人生を歩む事を始めた。

最初は苦しかったし生活にも厳しさは残ったが、徐々に経営者の頃ではパンパンだった思考を巡らす時間が社会の歯車に嵌るにつれ余裕が出てきて自分の知らなかった自分に出会えるようになった。

時間までパンパンだったのが、一般的な勤務体系となり週末まで得られるようになると、家族との時間が得られなかったという悔いを取り戻せるようにもなってきた。

そして私は一度、自分の人生から経営者としての未来やそれらから得られるであろう経済的なメリットの道程を捨てた。
言葉通り私は自分の人生から事業という二文字を全て消し去った。その確かな感触と、それが決して不幸や負けであると思わずにいられる人生というものを初めて知る事が出来たのだ。

そうしたら移住の話が生まれた。
不思議なのは捨てなければ得られないという全く意味の分からない事象を得る事が出来たのだ。

そして今がある。
1度目の経営者人生では、私は私の周囲にあった大きなうねりとも呼べる波が私の未熟な知識と経験を押し潰していった。そのために私はただ波に乗らされて溺れながらの時間だった。それでも懸命に学び追いつこうとしたが敵わずに大波に飲まれて全てを失った。

今はその感じが無い。
まるで何度も見てきた大波、いやそれ以上の大波なのに落ち着いて見定める事ができて、波の乗り方やいなし方、大波の中に動く悪い波やさざ波などを一つ一つ見る事が出来る。
そしてその波がまるでこの時期に押し寄せるであろう事を知っているかのような感覚と、その波に乗っていった先に着く海岸線を知り尽くしている感触を持っている。

最初は信じていなかった感覚だったけど、私の移住してからの3年間はその検証と自らの知見のレベルを推し量るに良い時間を安定した職と共に得られたのはちょうど良かったのかもしれない。
まるで優秀な病院のリハビリを受けているかのような時間を過ごせた事で今の大波を良いタイミングで呼び込めているのだろう。

日に日に目まぐるしく出来事や結果が変わり、それらの変化にはウオンツを満たす想定外の出来事がニーズとして埋めてくれる。
こんな事って…と毎回思うのだけど、常に感謝の気持ちは忘れずにいるものの甘んじてその環境に身を置ける今がとても忙しく、そして嬉しくもある。

それほどの流れは決して得ないと分かるほどのドライブ感はとても久しぶりだけど、きっと1度目の経営者時代ではその価値すら満足に思えなかっただろう。

この話をいくら他人にしても、残念ながらその感覚や価値が正しく伝わる事は少ない。
理屈で理解しても、いざ目の前に落ちてくると浮わついたり素通りしたりするもので、前述の負のホルダーがそうあるような「気づけない」と感じられないものなのだ。

コレをきっと経営的経験とも呼ぶべきものなのだろう。こうして稀有な年齢の重ね方をすると分かるものなのだと今は思うようにしている。

何が正しくて、何が間違っているのは残念ながら今の私にも分からない。
ただ、周囲に集う正や負のエネルギーホルダーの私や会社への接し方を見ている事で感じ得る第三者的な視点は持てるようになったし、その人達にどれだけの関わりと正負のボーダーラインを持つべきかが見えてきた事で客観的な自分の波乗りへのベクトルが分かる。

私は正に今から今までの人生では体験できなかったであろう大きな波の前にサーフボードを抱えているようだ。

逆らわずに、良く見て乗りたいと思う。