年末押し迫っていますが、ブログはコツコツとグー

 

臨床心理士への道のり 前篇

 

 臨床心理士への道のり 中篇

 

 さて、続き。
 
私は、一般的な就職活動のようなことはほとんどしませんでした。
といっても、それは特別珍しいことではなくて、心理の仕事を探そうとすると、公務員の心理職(これも募集そのものが少ない)以外では、先輩の紹介とか欠員が出たときの募集とか…
求人が掲示板に貼り出されて、それも1名か2名、ということが多かったです。
 
卒業も間近という頃に、たまたまあった募集…
それが私の初めの就職先となった、国立療養所病院でした。
 
試験を受けに行って、筆記と面接、最後は受験者数名で、実際に働く病棟を見学しました。
 
案内され、病棟の自動ドアが開くと、そこには今までに馴染みのない光景(そして匂いも)。
見学の私たちの足元を、ずり這いまたは座位のまま移動する患者さん…私以外の見学者が、一斉に、息をのむようにして一歩引き下がったのが横にいて、すぐにわかりました。
 
重症心身障害児(者)の病棟でした。
 
児といっても、何十年も前に子どもだった人がそのままずっと入っている(ほとんどがそこで一生を過ごす)ので、自分たち大学生より歳上の人の方が多かった。
 
他の人たちは。"怖い"と感じたのだと思います。あまりにも、奇異な雰囲気に押されて。
私も同じように感じたけれど、好奇心のほうが強かった。案内する人のすぐそばについて、説明を聞いた。
 
結果、就職試験には合格。
面接で、小柄な私を見て、「患者さんをベッドから車イスに乗せたり、力仕事も多いけど、大丈夫?」と言われたのを覚えています。
 
そこに入院しているのは、今でこそ、自宅で地域で暮らす方も増えてきましたが、何しろ重度の障害あり、ほとんどが人の介助を受けなければ何もできないような方々でした。
児童指導員という、病棟に一人配属される専門職でした。
実際には、生活の介助の側面も多かった。
心理職ではあったので、患者さんに対する発達検査(若年の患者さんを除き、それ以上発達することはないのですが)や、保育士さんと共に集団療育にかかわったり、意思表示のできる患者さんには心理面接のようなこともしました。
 
若かった私にたくさんの試練と、そして学びを与えてくれた場所ですおねがい
今でも“こころのふるさと”と思っていますキラキラ
 
ここで4年間勤めました。
そして辞めました。
それは、大学院に行くことに決めたからです。
 
4年間働いて、人間のいろんな部分を垣間見ました。
きれいごとばかりじゃないことも、複雑で、歯がゆいことも、でも人間っていいなと思えることも…
そして、曲がりなりにも、人の心の深い部分・繊細な部分に関わらせていただくのに、
”心”のことについてたいして知識もなく理解できていない自分がこのままここにいていいのだろうかと…
もっとちゃんと”心”のことを勉強し直したい
と思ったからでした。
 
なんと真面目な~~~びっくり
 
 


 
当時40代の男性の患者さんから、辞める時にいただいたプレゼントです。
患者さんの中では、理解力がとても高く、言葉は麻痺のためにほとんど話せませんが代わりに文字盤を指差しで会話をしました。
車いすで移動し、毎日リハビリ室で、作業療法士の先生に教わりながら、籐手芸をしていました。
この大作は、麻痺のある手と口を使い、仕上げるのは何日も何日もかかったことでしょうぐすん
私は、この方のことを思いだすと、強いということは優しいということ、優しいということは強いということだ、という言葉が思い浮かびます。
 
進学した大学院は、卒業したのと同じ、九州大学です。
社会人枠で受験しました。
受験時短い論文を添えなければならなかったのですが、私はこの職場で患者さんたちと共に過ごした経験をもとに、患者さんたちの集団としての成長を考察して書かせていただきました。
社会人枠で入学した人には、元薬剤師とか、元営業マン、とかいろいろいましたねーキョロキョロ
 
 
終わらない滝汗あせる!!
 
というか、この国立療養所時代のことは、本当はもっともっと書きたいです。
社会の問題も凝縮されていました。
 
 
 
ところで、余談ですが、国立療養所の就職試験を受けた後に、
たまたまNHK佐賀を受験する機会もあって、集団面接を受けたことがある~~ビックリマーク
難しい漢字を読む試験は、私はたしか上々な成績だったけど、面接時、周りは知的美人さんたちの集団で、私はシドロモドロ…しかも、国立療養所に合格していたことが分かっていたのでついその嬉しさを語ってしまい、、それ以後私に質問は来なかった…汗
これも思い出です笑い泣き
 
 
今日も私の個人的な回顧録に、おつきあいくださり、ありがとうございましたm(__)m。