https://www.php.co.jp/books/detail.php?isbn=978-4-569-85366-6
児童相談の介入で子どもの安全のために子どもか保護される。
自分の子どもじゃなく他人事なら
当然のことなんだけど
当事者になったら、
私も含めた世間が思うような反省して
世間が思うような親らしい親になれるのか考えてしまいました。
色々生活困難抱え込んで子ども育てるの大変過ぎます。
なんだかんだとめちゃ私は娘育てるのまわりに恵まれて出来る以上のこと求められることなかったなと。
自分が親にされたことのないこと子どもに出来るのか
よく自分がされて嫌だったこと他人にするなというけど、
↑ってどうしてほしかったのかどう扱われたかったかがわからない、そんなの考えることさえ無駄だったり命脅かす状況下で育つとか普通にある。
自分がしてほしかったことを他人にしてみても
それが、相手のして欲しいことと一致してなかったら、自分がしたいことしてるだけで相手の望みとマッチしないし、
一方的じゃない関係性って難しい、
親になったら自分が出来ないことは他人にやってもらう外注する能力身につけないといけないのだと思う。
わからないことは他人に聞く学ぶ。
簡単なことじゃない子どもの時からの経験値上げで積み重ねで身につける能力身につけさせない環境で生きるどころか奪う環境が虐待というか。
親になったらコミニケーション能力問われることばかりで身につけられずに、親になったら子どもを虐待するのもそうなる必然かも。
施設や里親と生活してる子どもと面会して、
子どもが自分といたときに出来なかったしなかった、
挨拶やら、楽しそうに絵本読むとか
そういうのみて、複雑な気持ちになるの
そういうものなんだ。わかるけどわからないという感じ。
子どもが楽しそうだったり、成長してるのみたら
嬉しいけど。嬉しいだけじゃない気持ち読んだその時はなんで?と思ったけど、
考えたらそういう気持ちになることある、あった
後ろめたいみたくない自分の中身点検してしまう重たいこと掘り起こす本でした。
虐待死が起きたら、児童相談所に誹謗の電話とか凄いらしいんだけど、そんなんでただでさえ業務に人が足りないのに、今救える子どもにまわれなくする妨害するってなんなの、起きてはいけないことが起きたら非難してる場合じゃないというのか非難するなら、
児童相談所の機能に人材育成に予算かけない国にクレームするとかさ、じゃああなたやってみなさいよ。と思うけど、考えたら、目の前で児童相談所に非難中傷してる人をやめさせられるか?止められないかも、が虐待の根っ子と繋がりがある。とかも思う。良いとか悪いとか簡単な話にしないのが難しいのか虐待だとおもってみたり。
子どもは親の気持ちなんか考えずやりたいように行動したら良いと思ってる。同時に親もなんでも受容とか無償の愛なんて無理、両方の折り合いが家族なんだと思ってる。
ちなみに、育てにくいとか親の問題とかで、
児童養護施設利用した親も何人か知り合いなんだけど、
子どもは、児童養護施設の生活をちょっと長いキャンプか寮生活したくらいな感覚だったりして、
虐待領域だとまわりに判断されるとこ行く前に、医療や福祉の相談利用する方が良い。
かと言って考えたら他人に相談する、も能力がいるんだよね、
支援する人もまた支援能力とかセンスにばらつきがあったり相性があったり、相談するべき窓口にたどりつくのも能力がいるし、
なんだかんだと虐待するとこに行きついてしまった状況ってそれ経験してない運が良かった状態で相談するの難しいと思う。他人のことならなんでも言えるわけで、
虐待されて育って他人に甘える感覚体験なく大人になってたり、常に他人と比べられて育つとか
他人に甘えることを恥だと思い込んでたり、
色々あって今の考え方が形成されてる。
親の言う事無視とか、言いたい放題って子どもってそんなもんでしょ、自分も散々やったから(実際言わなくても思ってた)

やったことないやら、親を敬えとか言われっばなし、
だから自分が親になって同じこと子どもに強制するとかたまたま運が良くてやらないのが出来るようになっただけの私の感覚でなんでとか思わないようにしないといけない。
↑ほんと難しい。