内側の世界 ちょびのすけとおかあさんの作品しか作れなくなった日の事 | なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま ~ただこの瞬間を

なかいま

過去から未来へと、連綿と続く時間の中で、その「中」である「今」を生きる。という言葉です。

なかいまを生きるとは、今この瞬間の自分自身を、全力で経験するということ。

ハムスターのちょびのすけに、常に全力で振り回されています(笑)

今、傍にいるかどうかは置いておいても、
すべての人には、家族が居る。



そして、自分の意志で、
新しい家族を作ることもできる。



昨日のお彼岸、私のインスタグラムは
不思議なことに、怒涛のおかあさん祭りでした。







泉のように、イメージが湧き上がる。

私はそれをただ、筆に乗せて紙の上に再現する。



私の母は彼岸の先に居るので、
お彼岸の日に、私の内的空間に遊びに来たのかもしれない。




内的空間と言うものがある、と知った。


私は自分の内的空間が解らないとしょげていたら、


ちょびのすけとの触れ合いや、
色んなものを使って、
その世界には触れていると思うよ。


と言われた。

その時は、そんなもんなのかあ
とボンヤリ思っていたけれど、
彼岸の前日に、突き動かされるように動いた筆は
おかあさんに抱きついているちょびのすけだった。

そこから、怒涛のおかあさん祭り(笑)



私の筆文字は、頭で描いていない。
割と勝手に筆が動く。


とはいえ、別に
身体を乗っ取られているというわけではなくて
身体のそこから湧き上がる想いが筆を動かすというもの。


私の内的空間が、筆に乗って発露する。



筆文字だけではなく、
落書きや物語の創作や、
何やかやにそれは全て現れていた。


と、言うことにふと、気がついた。

なるほど、こういうことなんだ。







先程のひらいなずさんから、
もうひとつ言われていて
ピンときていなかった事がある。


天真爛漫
純粋
空っぽ


なずさんからみた私は、
こんな感じらしい。


自分ではピンとこなくて
そんなもんかと思っていたけれど、
着飾ることを止めた自分は
本当にそんな感じだなと思った。


空っぽって聞くと、
虚ろな感じを連想するけれど、
そっちの意味ではないそうで、それなら
純粋な空(くう)、と言う事なのかな。



ごちゃごちゃしておらず
風が通り抜ける、空





私の内的空間は、平常は空で
そこに湧き上がる何かを見つけて、
筆が形にする。


そんな生き方も、
面白いんじゃないかなあ


そんなふうに思った。



わたしが、
私であることを

本当の意味で、しっかり容認できた。



そんな気分。







いつもありがとう。