昨日、進撃の巨人展に行った話を書きました。
で、ふと思ったのですが、
進撃の巨人のストーリー
おもいっきり「自己犠牲要素」ないですか??
私は、進撃の巨人の漫画が好きなのですが、
要点を簡潔に書くと
・巨人になる人種がいる
・巨人になるからくりは、自損からの人体の回復機能を利用したもの
・ていうか、必死にそれをしている一人の少女
・主人公はそれを繰り返して戦う
因みに
・エルヴィン団長も人類のために自分と部下の命を張った
最期のあのひとこまも、自己犠牲の美徳をいやというほど描いているわけで。
まあ、私もエルヴィン団長級の自己犠牲の持ち主でした。
過去形で書いておく。
あの作戦があったから、獣の巨人を退けられたけど。
エルヴィン死んじゃったし。
どうせ獣の巨人、また来たし。
進撃の巨人展で、作者の諫山先生は
「自分が感銘を受ける作品は、見て自分が傷いたりしたようなもの。読者を傷つけたい、という気持ちもあったかもしれない。(要約)」
と、お話しされてました。
進撃の巨人には、全編とおして緻密な伏線が張られていて、さらりと読んで忘れていたような事が、後に大変な伏線だったことがわかる、ということばかりです。
ものすごい方法で読者をビックリさせる。
進撃の巨人を読んでいる楽しみのひとつには、作者のこんな仕掛けに、とても感情が動かされること、があります。
天才的な緻密さだなあと感動します。
そして、ふと思う。
私、人魚姫や幸福な王子のお話しが、
本当に「好き」だったのかしら。
好きとはなんだろう
好きとは、その対象にたいして、沸き上がる愛しい気持ちのことではないだろうか。
私、別に人魚姫や幸福な王子に、沸き上がる愛しい気持ちなんて感じてないわ。
感じているのは、
「胸が締め付けられる、切ない気持ち」
この事を、人は「好き」と表現するだろうか。
どちらかと言えば、この状態は
「感動した」
と表現するほうが、よほど適切ではないか。
しょーたが求めていたのは、果たして参加者の「感動した本」でよいのだろうか。
こういうとき 私は原典をあたることにしている。
しょーたは こう書いている。
※以下引用
「好きな本を持ちよって
好きな世界を語り合う
しょーたの読書会のご案内です。」
※引用終わり
うん。
好きな本
とかいてあった。
これだから、参加してないのに勝手に書いてるやつはね( ・ε・)
さて。
私の好きな本
沸き上がる愛しい気持ちが溢れる本
それは決まってます。
『丹波哲郎の大霊界』
子供の頃の、私の愛読書でした❤
とにかく、
占い、診断系の本
宇宙や地球など、天体のはなし
この世の何故なに知識(物理学の話を子供向けに面白おかしく書いたもの)
霊界、生まれ変わり、予言書
など、当時 オカルト と言われていたもの
などなど。
現在スピリチュアルと言われているもの、押し並べて大好きでした☺
ここまででわかったこと。
『読書会では、好きな本を持ち寄ること』
……感動した本じゃなかった(*´ω`*)
( ・ε・)