日本とイスラエル 4(安全について) | Ayanosuke

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中学の歴史の授業でキリスト教に興味を持ち始め、オーストラリアの日本語教会で洗礼を受けクリスチャンになりました。
そんな私がミイラ取りからミイラになり、ミイラになり切れなかったことを感じた記録です。

水と安全とサービスがタダだと思っているのは日本人だけだ。と1990年代くらいまでは、頻繁に聞いた言葉です。

日本では、水道水は飲めるし、窓は開け放ち、玄関の鍵を閉めない家があるほど安全だったし、飲食店やホテルを利用してもチップを払う習慣はない。

そんな日常だったと思います。

 

そんな日本人の感覚ではイスラエルは理解出来ません。

 

「内なるゲットーと外なるゲットー」と言ったのはユダヤ人国家の父、テオドール・ヘルッェルである。ユダヤ人はゲットーに押し込められている、が、ゲットーの内部にいる限り、安全である自由である(少なくとも普通の国ならば)。しかしひとたびそこから外部に出、いわゆる「同化ユダヤ人」になるなら、自分の精神のまわりを黒幕で包んで、全く心にもない生き方をしなければならない

いわば隠れ切支丹が仏教徒として振舞ったように生きなければならない。

 

しかし、そうやっても、いつかはばれる。ばれた時のお仕置は、隠れ切支丹が受けたお仕置よりももっとひどい。炭火でじわじわと焼き殺されるなどというのは、まだまだ軽い方であったろう。そこで、毛すじほどでも身に危険を感ずれば、何もかも放り出して逃亡しなければならない。

 

(隠れ切支丹のお仕置を詳しく知りたい方は、遠藤周作の「沈黙」を読むと良いかと思います。

ヨーロッパの宣教師が「日本人は頭が良い」と評したのは、何も宣教している時のみならず。隠れ切支丹弾圧の方法も、人間が考えられる人間に対する残酷なまでのお仕置。そして救いがないと評されます。

それがよく分かると思います。)

 

ユダヤ人国家の提唱者、前述のヘルッェルが、いわゆる同化ユダヤ人の出身であって、この「内なるゲットー」の苦しみをなめつくした人であること、そしてこの人が、この二つのゲットーの両方から逃れ出るには、ユダヤ人国家創設以外に道がないと考えたこと、それは少しも不思議ではない。

 

1948年にイスラエル建国から現在まで続くパレスチナの中東戦争・パレスチナ紛争は、ユダヤ人の「安全にはコストがかかる」という考え方から、コストのかからない安全な地を手に入れるための戦いでもあるかと思います。

 

参考文献 日本人とユダヤ人 山本七平