今でも大好きなヒトの最期の話。2 | ayanokakera

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2008-09-18 12:12


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2004年11月16日




今、11月16日の午後9時過ぎです。





今月の二日からこの日記を書くことができずにいたのですが

記しておくべきだと思っているので思い出せる範囲で

書き記していくことにしました。






11月2日




拓也と何気なく過ごして病室にいたら、先生から呼ばれた。


奥さんに先に病状の説明をしますから、と。




昨日の拓也を見てどこか安心していた私はそれほどの不安もなく

カンファレンス室に入った。




いつものように血液状態とレントゲン結果の説明。

血小板の数値は相変わらず。腫瘍は若干大きくなっていた。


その説明を終えた主治医が言った。




「このデータからいくと、そろそろ覚悟を決めていただく時期が

来ていると思います。」


「は?」頭の中が真っ白だった。何言ってるの?




こはる)でも、まだご飯も食べてるし、自分で歩いてトイレも行けるし、普通に会話してますよ。

主治医)今の状態が明日もそうだとはいえません。むしろこれからは悪くなる一方だと思います。




こ)血小板が少なくても、輸血で保つことができるんでしょう?

主)こういう言い方は失礼かと思いますが、輸血をした結果、状態がよくなっていく患者さんには治療を続けることができます。


  でも、ご主人の場合、輸血をしてもそれが追いつかなくなってくるので、いたずらに続けるべきではないと思うんです。




こ)でも、血小板が急激に減るのは止まりますよね。

主)これもお金の話と言うわけではないんですが、輸血も保険診療では回数が決まってるんですよ。この病気には何回とか・・。


こ)じゃあ、自由診療でかまいませんから輸血を続けてもらえないんですか?

主)自由診療と保険診療は一緒にできないんですよ。




私は頭を抱えてた。理解できなかったからだ。この人は何を言ってるの?


私は拓也の命をどうしたらつなげられるかを話してるのに。




保険で決まってる?じゃあ、あなたの奥さんが同じ状態なら、あなたはその理由に納得できるの?






こ)そしたら、後はどうなるんですか?

主)身辺整理とか、会いたい方には会っていただくとか。

  あと1週間後はわかりませんから。




ふざけるな。輸血ができないって理由だけで拓也の命の期限を

あんたたちに決めさせることはないわ。




こ)在宅酸素を使って自宅で過ごす方がいることを聞いたことがあるんですが・・可能ですか?

主)ご自宅でですか・・?大変だと思いますけど、出来なくはないです。

調べてみましょう。




大変だろうがなんだろうが、あなたたちは拓也をもうだめだと決めてるんでしょ。

そんなとこに置いてなんかおかない。私が治してみせる。




この後、ソーシャルワーカーの先生を通して、在宅酸素、電動ベッド、救急車の手配、訪問看護&往診の病院の手配が2時間後には出来上がった。




この間に私は拓也に家に帰ることを話した。




先生たちは血液データだけであなたを判断した。

輸血の回数も保険で決まっていてできないのだそうだ。




私はそんな理由には納得できないから腹が立って仕方がないから

あなたをうちにつれて帰ることにした、と。







「またそんな、極端な話を。」




私は何でも決断するときに迷うことが少ない。

いつも先走っていると拓也に引き戻されるのだ。


でも今回ばかりはそうは言ってられない。


先生たちの言うとおり残り少ない日々なら

こんな病室に拓也を置いておく事はできないからだ。




すべての手配が整ってから主治医が拓也にやわらかく一通りの説明をした。




主)27日がお子さんの発表会なんですよね。近くに目標を設定して

 がんばっていくことは大事だと思いますよ。


 (こはるの心の中)27日が近くって言うな!(怒!)




この主治医、優しい人だと思ってたけど、勘違いだったのか。




この日私は病室に泊まった。拓也を一人にはしておけなかった。




夜、家に電話をした。電話口で義母が私に言った。


「連れて帰ってきてどうするの。なにもできないじゃない。こんなに悪くなってるなら早く言ってくれなくちゃ。お義父さんの仕事もあるし、心の準備って言うのが・・」




義母が言い終わらないうちに怒鳴っていた。

「私だって今日聞いたのよ!突然よ!まだ元気なんだから!」




「なにもできない」「どうにもしてあげられない」義母の口癖だ。

この言葉が今の私はこの世で一番嫌いだ。




「まだできることがある」「まだやることがある」

私がいま心に決意しているのはこの言葉だ。








11月4日




朝から拓也は緊張していた。脈も速く、痛みも増していた。

昨日もあまり眠れなかったようだった。




3日の夜、こんな会話をした。




こ)おうちに帰るの怖い?私、いつもなんでも勝手に決めちゃうから・・

  拓也の気持ちのペース、無視しちゃってるから・・


  昨日も腹が立っちゃって、すぐ帰るって決めちゃったし・・

  拓也の気持ち置いてけぼりになってないかなぁ・・


た)怖いよ。急な話だし。でも、仕方ないって言うか、先生たちに見放されたんだし・・しょうがないよね。


こ)ここの先生だけよ。治らないって思ってるの。

  ○○先生(セカンドオピニオン・東洋医学)もまだ出来る事があるからやってみましょうって言ってくれてるし、


私の周りのひとはみんなまだ  やることがあるって言ってるよ。治るってみんな言ってるんだから。


た)こはるがいいならそれでいいよ。




2日の夕方から3日にかけて、私は自分の持っている限りの人脈に

拓也を治すために私は何をすべきかを尋ねまくっていた。




東洋医学や気の流れで難病治療をしている先生は、熱が下がらず、血小板の減る理由に感染を疑っていた。

救急車で帰る途中そこで診察を受け、感染だとわかったのでお薬をもらい帰ってきた。




アーユルヴェーダの先生からはマッサージの仕方や私の気持ちの持ち方を、自然食品店のお母さんからは東城先生の手当て法を、ベビーマッサージの先生からはマコモ足湯を、温熱療法のイトオテルミーも先生に毎日来てもらうようにお願いした。




すべて拓也が病気になってから知り合った人たちだ。

みんな私に出来ることを教えてくれる。


これからだ。

出来ることをやるのだ。残された道はひとつ。




帰る時間が近づいてきて、話していると、拓也が涙をこぼした。


「どうしたらいいんだろう。こんなに早く・・。2ヶ月前まで元気だったのに・・怖いし。どうしていいかわからない。」




泣いてくれてよかった。心を開放することは大事だ。

泣かずに我慢しているのは余計に心配だ。




「私の周りの人たちはみんなまだ治せるって言ってくれる人ばかりだよ。

おうちに帰って、できることをして、治そうね。きっと治るから」




きっと治る。私はまだ治ると信じている。まだやることがある。


あきらめるのはいつでも出来る。今やるべきことをやらなければ。












11月5日




拓也は昨日の移動がたたってひどい腰痛を訴えていた。


生姜湯湿布やこんにゃく湿布で温めたり、テルミーで温めたり。

なかなか痛みは取れなかった。




4日にうちに帰る途中、往診に来てくださる先生の診察を受け、自宅に戻り、その足でまたその先生のところでこれからのことを話した。




医大で言われたこと、その理由に納得できなかったこと、セカンドオピニオンの先生の診断で感染が疑われること、医大の薬をその先生の指示で減らしたこと、これから自宅で出来ることをして、医療面でのサポートをお願いしたいことなどをすべて隠さず話した。




医大であれほど私が頼んだにもかかわらず、出来ないと言われた自由診療での輸血は、あっさりと承諾してもらえた。




私のように納得しないで連れて帰ると言わない患者の家族の人は、あのまま医大で言われるがままに、患者の命を看取るのだろうか。ぞっとする。




厳しい状況に変わりがあるわけではなかった。


終末期ケアという資料も渡された。治療という意味では難しいと。




それでも、あきらめるわけにはいかない。


西洋医学の限界はあっても、拓也の自然治癒力の限界が来るまでは

あきらめない。




私にはあきらめることは許されない。












自宅に戻ってからは、毎日こんにゃく湿布&ショウガ湿布&イトオテルミー&足湯で体を温め、処方されたお薬を飲み、痛みがおさまるように痛み止めを調整する日々が続いた。




医大に入院中は下がらなかった熱が、8日には下がってきた。輸血にも反応しなかつた血小板も少しだが上がってきた。


熱が下がった。これだけでも飛び上がって喜びたい気分だった。暗い闇の中に光が射すような、とは、こういう時のことを言うんだろう。




しかし、痛みが完全に消えることはなく、変わりにモルヒネ系の副作用がひどくなってきた。

吐き気・眠気に終日襲われ11日には食べ物はおろか薬も飲めなくなっていった。




せっかく熱が下がったのに、食事が取れず、薬も飲めない日が続く。

吐き気のため、体を温める方策も拓也の気がすすまない。


痛み止めの副作用とはいえ、これほどまでに体を弱めるとは思ってもみなかった。


あっという間に体力が落ちる。なのに痛みはやってくる。

いつやってくるかわからない痛みと不意に起きる吐き気におびえ、体を動かすことすら嫌がるようになってしまった。




そうして過ぎていった13日間。拓也が自力でベッドから動けたのは最初の数日だけだった。


そして今日、16日。相変わらず取りきれない痛みとおさまらない吐き気。




それに加えて私を打ちのめしたのは幻覚という副作用だった。




2,3日前から兆候はあった。しかし、今日は夢と現実の境目がわかっていないことが数回あった。


困惑した私の顔を見て苦笑い。自覚はしてるようだ。




そういうことを往診に見えた先生と話した。先生の答えは厳しかった。


「薬の量が減らない限りおさまらないかもしれません。


 カロリーの点滴も栄養分が腫瘍に吸収されるので出来かねる。

 病状も進行していると思います。無理なさらずにいつでも病院のほうへ」




何か違う。このままではいけない。


出産後、私はいつもこの「気づき」によって大きな変化を決断していた。

母親の第六感とでも言うのだろうか。


何かおかしい、と気づく。






ご主人を拓也と同じガンで亡くされた方に相談して

教えてもらっていた緩和ケアの相談窓口に電話した。




機械式の皮下注射を使う痛みケアの方法で今の状態を改善できるのでは、と思ったからだ。


数日前に往診の先生に尋ねてはいたが、拓也には適さないという返事だったのでそのままになっていたのだ。




しかし、本当に適さないのか。私が自分で確認する必要があると思ったのだ。

このままではらちがあかない。迷っている暇はなかった。




その結果、その方法でケアが可能だろうという返事をもらい、

18日木曜日に私が外来を受診し審査され、金曜日に入院を

することになるだろうということになった。




またひとつ道が開けた。痛みをコントロールできるようになるという

在宅療養での第2目標が、不可能かと思いかけていた目標がみえてきた。

(第1目標は熱が下がることだった。第3の骨髄抑制の改善はまだまだだけど。)




後でわかったことだが、普段この病棟は空きを待つ予約でいっぱいで

すぐに入れることはないそうなのだ。たまたま偶然にも部屋が空いていて

拓也を受け入れてくれることが出来たらしい。偶然という必然に感謝。




今日の朝、無力感でいっぱいだった私の弱いココロの部分が

この入院で拓也を取り戻してみせるという意欲で埋まった。




例によって私の独断で事態が急展開し、拓也にはまた

「急な話だね」と言われてしまった。




しかし、あくまで拓也が望む入院でなければならない。

そこにはこだわりたかった。


どんな風なことが入院で行われるのか、それによって何が改善されると思われるのか、私の主観ではあるけれど説明してみた。


「行ってみようかな」


そう言ってくれるだけでうれしかった。ありがとう。




自分で言うのもなんだけど、拓也が病気になってからというもの

危険なものを遠ざけ、安全なものに向かうように動けるようになった。

そのおかげで知り合えた貴重な指導者の方も多い。




感覚が研ぎ澄まされる。そうすると自然と自分にも周囲にも厳しくなる。

神経質すぎる。そう言われることもある。




でも、こんな病気を経験しないとわからないのだ。

この世の中は危険なものが満ち溢れている。




私には守るべき大切なものがあるのだ。




無頓着ではいられない。そうだった昔の自分に戻りたいときもあるけれど。


何も考えずに好きなものを食べ、好きなことをしていた自分に。




どちらが幸せなのか。それは誰にもわからない。












2004年11月17日





私が拓也につきっきりのため、子供たちはほとんどの時間を

同居の義父母と過ごしている。




私の姿を見かけると抱っこ、おっぱいと追いかけてくる。


拓也が落ち着いている時には抱っこや寝かしつけ、授乳や入浴もできるが、そうでないときは泣いてる子供から逃げるように階段を上がる。




誰のために何が最善なのか。みんな私の大切なもの。だけど体はひとつだ。




そんな葛藤の中、ある時アーユルヴェーダの先生と電話で話した。




「今あなたを一番必要としてるのは旦那さんなの。

 あなたの想いが旦那さんを助けるのよ。


 手を握ったり、体を支えたり、いつも私がそばにいる。

 あなたを支えているのよ。ってことを旦那さんに感じてもらうの。




 子供たちは大丈夫。今までずっと充分に愛情を注いできたんだから、

 おかしくなったりしない。あなたたちの姿を見てちゃんと感じてるから」


力強い先生の言葉にそれまでの葛藤が溶かされていくようだった。


そうだね。私は太郎に4年間、花子に1年半、誰にも負けない愛を注いできた。




あの子達にとって誰よりも強い結びつきを持っているのだという確信さえある。


信じるのだ。子供たちを。大丈夫。そしてこの子達の父親である拓也を。


私の大切なものたちの全てを信じるのだ。










2004年11月18日




たくやの状態が落ち着いている。

というか、一日眠っている。




痛みはさほど感じないようで、吐き気もおさまっている。

体内の薬の量に慣れてきたのだろうか。




しかし、良い方に向かっているわけでもなかった。

体を横向きにしただけでも息があがる。


眠った顔を見ていても、呼吸が止まるんじゃないかと不安になってベッドサイドから離れられなくなってしまった。




夕方少し起きてシャーベットを食べた。

何か温まるものを食べさせたいが、のどを通らないらしい。




た)「明日行くの?」

こ)「うーん。どうしたい?今日は状態も落ち着いてるみたいだし、君がしたいようにするのが一番だから、このままうちに居たければそれでもいいし」




た)「どうなったら退院できるかがいまいちわからないんだけど」

こ)「痛みのコントロールが出来ればいいんだから、1週間が目標だよ。

   太郎の発表会27日だし。」




拓也は困ったように頬を上げた。




こ)「無理には行かなくてもいいよ。ビデオでも見られるしね」

た)「うん・・。○○先生(往診してくださってるかかりつけ)はなんて言ってるんだろう。もう少しこのままって思ってるんかなぁ。」




こ)「デュロテップとアンペックでいきましょうっておっしゃってたからね・・。直接お話して聞いてみる?」

た)「うーん。」




そんな会話をしながら眠ってしまったのだけど、夜中の2時に


「ここから脱出させて。どこか、動かして。」


と、あせりぎみに言うのでソファに座らせた。




10分間ほど、夢の中の話が続く。途中飲み物を勧めたりして現実に引き戻そうとするが落ち着かない。長い時間。でも多分10分程度のこと。




ふと我に返って苦笑い。手を握り、飲み物を勧めるしかできなかった。




緩和ケア病棟に入院してうまくいけば、痛みもなく眠気もなく、

普段の生活を送ることが出来るようになるかもしれない。




これは賭けだった。

そこにたどり着くまで、あと1週間から10日間、拓也の体力がもつかどうか、錯覚が治まるかどうか。




帰ってこれるかどうか。






自宅で過ごすことはあきらめたことになるのだろうか?

改善できるかもしれない入院を取りやめることは後ろ向きの選択?


帰ってこれるかどうかわからないと思うこと自体、私には耐え難い。


でも事実、体力的な不安を訴えている拓也がいる。




あと4時間後にはうちを出なくては。


そのときには結論が出ているだろうか。

 








2004年11月18日




緩和ケア外来に相談に行ってきた。

拓也は不安そうだったが、それでも「いってらっしゃい」と送り出してくれた。




結論から行くと、入院は不可能だった。


拓也の今の状態を保っていくためには血小板の輸血は不可欠なのだが、緩和ケア病棟では輸血は治療行為とみなされ行わないのだそうだ。




輸血を行わなければ、5日ごとに輸血をしている拓也の場合、入院後、3日もつかどうかだと。脳内出血が起これば後がないと。




それでも、熱心に私の話を聞いてくださり、自宅でも可能な処置を主治医に電話で提案してみましょうといってくれた。


たまたま主治医が以前その病院に勤めていたことも、良かったようだ。看護士長さんもひとしきり私の話を聞いてくださり、お礼を言って部屋を出た。




入院はかなわなかったが、自宅での処置が一歩前進した気がして、拓也を置いてでも行った甲斐はあったと思った。




だけど、いつ起こるかわからない出血の話がやけにリアルで、急いでうちに帰った。


前にもその危険性は聞いていたのに医療関係者から話が出ると、すごくリアルに心に響いて、息苦しくなる。


うちに帰って顔を見ると胸が張り裂けそうだった。ひざの力が抜け、立っていられなかった。






眠っていた拓也が起きたので、輸血が出来ないから入院はやめるけど、痛みを取る方法を主治医の先生に直接話してくれるそうだから、 おうちでやっていこうねと話すと、




「なんかちょっとほっとした。」と言ったので「私も。おうちで出来るならそれに越したことはないもんね。」と答えた。




午後になって往診のときに新しい風船型の皮下注射が拓也のおなかに刺された。24時間持続して薬剤が体内に入るのだそうだ。


これで痛みが来ませんように。




それから約10時間輸血をしながら眠り続けた。呼吸がゆっくり過ぎて驚いて訪問看護ステーションに連絡したが、呼んで起きれば大丈夫との事だったがなんだか怖くてそばを離れられなかった。






この日の朝、起きて拓也が手招きするので顔を近づけたら片手で抱きしめられた。


「こはるがそばにいてくれたらほっとする。他の事はどうでもいい。そばにいてほしい。それだけでいい。」




私しかいないんだ。そう改めて思った。拓也の心のそばにいてあげられるのは。




図りきれないほどの不安の中にいるはずのこの人を守らなくては。


今までずっと守ってもらってきたんだもの。強くなれるはず。




元気な時からそういうこといってくれよ、とも思ったけど、

元気になったら、また言わせよう、そう思った。










2004年11月19日




「頭の中がぐちゃぐちゃで。おかしい事言ってるよね。ごめんね。」


錯覚を起こして話がまとまらない自分に気がついているのだ。




お薬のせいなんだから仕方ないじゃん。だんだん治るから大丈夫だよ」

そう言う私に困ったような笑顔を返す。




錯覚に気づいて自嘲的に笑う回数が増えた。


気がつくということは改善されてきたようにも思うが、錯覚を起こす回数は依然として減らない。




朝と夕方、痛みがきたので、座薬の痛み止めを使うと数時間眠っている。

起きて混乱した頭で何かを考え、痛みがきては薬に眠らされる。


こんな毎日が繰り返される。






「もう限界」昨日ぽつりと拓也が言った。




答える言葉が見つからなかった。






輸血をしなければ後3日。昨日言われた言葉が頭の中をよぎる。


出口の見えない毎日にいたずらに引き止めているだけではないのか?




私が望んでいること?拓也が望んでいること?


考えれば考えるほど、答えは見つからない。






目指しているのは骨髄抑制の改善、ガン細胞の自然退縮。


信じるしかない。たくやのちからを。みえないもののちからを。











2004年11月19日




アーユルヴェーダの本を読んでいたら、アーユルヴェーダ的精神論と言うか、気持ちの持ちようのことが書いてあった。




まずは、全ての事柄をあるがままに受け入れること。


そして今ある事柄は全て自分が選択している事。




たとえば、悲しい出来事があったとする。でも、それを悲しまないという選択もできるということ。悲しむという選択を自分がしているのだ。




そしていのちの捉え方。全てのものは根底でつながっている。

人の心や意識、魂のような見えないものは宇宙の見えない力とつながっていてそれはまた万物につながっている。それは不変のものでいつでも、どこにでも、ある、ということ。




体や物質、自然の木や水、これらはその不変のものを具体化した一時的なものであるから、不変ではなく生まれ変わるもの。




妙に納得しながら読んだ。確かに、いろんな選択の結果が今であり、今もそうして選択し続けている。


そうして今を受け入れる。良いとか悪いとかの判断は必要ない。ただ受け入れること。




認めて、選んで、その選択をまた認めて、そうして生きていく。


悩む必要はない。自分の内なる声を聞き、今を受け入れるのだ。


アーユルヴェーダから学ぶことは多い。







拓也は起きている時間が極端に短くなった。


薬からの眠気と、体力の低下で起きていられないようだ。


起きていてもウトウトとしたような感じで会話も途切れてしまう。






私の中で何かが変わっていた。


あきらめてはいない。


だけど、眠っている拓也のそばで、もうなす術がないということに気づきかけていた。






ただ拓也と手をつないでいた。


一晩中つないでいた。









2004年11月20日




朝、拓也が眠っている間に買い物を済ませようと1時間くらいそばを離れた。


携帯電話が鳴った。訪問看護の看護婦さんからだった。

「今、ご自宅に来てるんですが、ご主人、言葉が出ないようなんですけど、いつからですか?」




昨日の夜、眠りかけて話した言葉が聞き取りにくかったことを思い出した。

眠気からだと思っていたが、そうではなかったのか。




「すぐ帰ります。」


自宅に戻ると拓也はまた眠っていた。

祈るような気持ちで手を握っていた。




しばらくして目が覚めた拓也に「ごめんね、買い物に行ってて。」と声をかけてみた。


「うーいん」

ショックだった。声は出るが言葉にならないのだ。




聞き取ってやれない自分が腹ただしくて、謝る私にジェスチャーで筆談をしようとしたのだけれど、文字にならない。




ひらがなを51音書いて指差すようにしたけれど、見えないらしかった。意識ははっきりしているだけに、拓也の心を思うとたまらなかった。


「お薬のせいだと思うから、先生に聞いてみようね。大丈夫だよ。」


そう言ってまた手を握った。強く握り返してくれて少し落ち着いた。




先生が来て、いつもどおりの処置が終わり、やはり薬のせいで言葉が出ないとのことだった。


拓也は先生をじっと見つめてた。もう声を出すことはなかった。




玄関で、先生にこれから拓也はどうなるのかと尋ねた。




先生「全身状態がだんだん低下していますから、だんだん呼吸の状態が悪くなると思われます。

   一度速い呼吸になった後、段々とゆっくりになって、そのまま・・というふうに。」


こはる「病院と、自宅で何か出来る処置は違いますか?」




先生「基本的には変わりません、酸素マスクもお宅にありますし・・・。

   後は、注射で眠らせることは出来ますが、そうなってから移動は難しいと思いますから、入院させるなら早めに、ですね。」


こ「わかりました」




義父母にそのままを伝えた。

私はこのまま、うちで拓也のそばで出来ることをしたいということも。




反対されて入院させられるかと思っていたら、私が看取ってくれるなら家が良かろうと賛成してくれた。


ここにきても、まだ私は奇跡を信じていた。




子供たちを部屋に入れ、ベッドサイドに立たせると、自力で横になるのが難しかった拓也が手すりを握り締めて横向きになり、顔を持ち上げて二人の子供の顔をしっかりと見た。


まだ1歳半の花子は覚えたばかりのバイバイをパパに向かって繰り返していた。やわらかい笑顔になった拓也は手を振り返した。


太郎はやはり何かを感じていたようで、一歩引いていた。




それでも、しばらく部屋で遊んで過ごした。


拓也は電動ベッドを起こしてその様子を眺めていた。




どれくらい見えていたのかはわからないけれど。

子供達のちからが拓也に奇跡を起こしてくれないかと祈る気持ちだった。




夜になって、元看護婦の義姉が来てくれた。


拓也の状態は変わらなかったが、私が声をかけると手を握って返事をしてくれた。

体を拭くのに体位を変える時も、自分で動こうとしてくれていた。






容態が変わったのは夜中の2時だった。


先生の言うとおりの速い呼吸。息苦しそうなので酸素マスクに変えたけど、

もともとマスクが嫌いなので外してしまう。




「鼻のチューブがいいなら手を握って。苦しくないの?」

そう聞くと握り返してきた。まだわかってるんだ。私も握り返した。




どのくらいこの呼吸状態が続くのだろう。




家族を呼ぶべきなのか。子供達は入れられない。


義父母はきっと耐えられない。




このまま呼吸がゆっくりとなるなら、それから呼んだほうがいい。




そんなことを考えながら拓也の手を握っていた。


汗が出るほどしっかりと手をつないでいた。






3時になり、痰が絡んで苦しそうだったので、義姉を呼んだ。


吸引機を病院から借りる手配をし、義父に取りに行ってもらった。




ネブライザーで加湿したりしながら試みるが、思うように取れない。

先生が、痰がなくてもそういう音がすると言っていたので一旦やめた。

手足が冷たくなってきたのでイトオテルミーで温めた。


義姉も義母も手をさすって温めた。


義母は落ち着かず、わがまま勝手なこと(病院に電話しろだの、看護婦を呼べだの)をいろいろ言うので下に降りてもらった。


昼に、そうなってから病院にと言っても遅いことは説明していたからだ。




自宅でと決めた以上、落ち着いて拓也を守りたかった。


モニターや医療機器につながれるようなことはしたくなかった。






5時くらいまでは、私の声に反応していた。手を握り返してくれていた。


だんだんとその力も弱くなり、最後にはかすかな指の動きを感じるくらいだったけれど。




6時過ぎ、呼吸の変化に義姉が気づいた。


あきらかに呼吸が落ちてきた。




ベットに上り、横向きにし、背中をたたいた。


「拓也!ゆっくりでいいから、息して!

生活発表会まで後5日やん!お願いやけん、息して!

お姉さん、人工呼吸しますから、お願いします。」




大きな声に気づいて義母が子供と上がってきた。

「子供を部屋に入れないで!降りて!」






6時25分。35年の拓也の生涯は閉じた。




静かに手を握り、逝かせてあげるつもりだったのに。


ごめんね、背中たたいちゃって。ごめんね。


やっぱりそんなに冷静にはなれなかった。






先生に連絡し、確認してもらうまで、ベッドの上で手を握っていた。


両親や親戚が入れ替わり立ち代り、驚いて嘆き、悲しんでは降りていったが、


みんなが1階でばたばたしだして、二人きりになれた。




抱きしめてキスをした。いつものように眠ってる拓也のようだった。






肩に顔をうずめてみた。忘れたくない。首にあたるこの感じ。




忘れないように、覚えておこうと思って、いつものようにキスをした。






ありがとうね。たくさんたくさん、ありがとうね。

ほんとに良くがんばってくれたね。ありがとうね。




先生が死亡確認をし、みんなで拓也を1階に降ろして行き、私だけが残った。


後のことは全て両親に任せた。何も考えたくなかった。








2004年11月21日






昼過ぎまでは、ただただ泣いていた。


何も考えていなかった。考えられなかった。


なのに涙は次々とわいてくる。座るだけで精一杯だった。






葬儀用に写真をと言われ、アルバムを開いた。


それからだんだんと、思い出していた。


たくやと一緒にいた7年間。






初めて一緒に遊んだ日。「もう離れられん」そう言ってくれた。




亡くなる数日前。「こはるさえそばにいてくれたらいい。」そう言ってくれた。


拓也はいつも私のそばにいたいと言った。どこにも行かないよね。








遺影には、二人きりの部屋で私が撮った、大好きな表情の写真を選んだ。




仮通夜が始まるころには自分でも驚くほどしっかりしていた。




おうちに帰ってきてからの18日間、お互いに感謝し、想いを伝え合い、そばにいて手を握っていた。

それを含めた7年間が私を支えていた。







2004年11月22日




棺に入れるものを用意していたら、大好きなミニカーは金属で入れられないというので、写真を撮ろうと準備していた。

そしたら、たくさん写真が載っている大全集みたいな本を持っていたことを思い出した。


でも、その本のありかがわからない。どうしよう~と思っていたら、ふと思いついて、一度も開けた事のない棚を開けてみた。




そこにあった。びっくりしたけど、拓也が教えてるんだと思った。

探していた「アメリカングラフティ」のDVDもひょんなところでみつかった。




拓也と同じ趣味の先輩が、棺に入れられるようにと、粘土でミニカーを作ってくれた。きれいに色まで塗って。




とてもうれしくて、通夜の夜、拓也に見せて話しているところを後ろからいとこの子が見ていたらしい。


すると、私が話しかける度にろうそくがとても燃え上がって、拓也が喜んでいたのだろうと教えてくれた。


不思議だけど、やっぱりそばにいてくれているのだ。






通夜の夜、一晩中拓也と話していた。姿が見れるのはあと一日。


そのことはやはり悲しくて悲しくて涙が止まらなかったけれど、




葬儀の最後のお別れで、おでこをつけて

「拓也のおかげで強くなれたから、いつまでも拓也が守ってくれるから、この体だけはさよならだけど、いつも一緒にいるから大丈夫だよ。」と伝えてキスをした。


もう泣かなかった。大きなちからに支えられていた。












2004年12月23日




旦那さんがなくなって一月が経ちました。

クリスマスに思うことを少し。。。




皆さんのそばにも大事な方がいると思います。


実際にそばにいるヒト、うちの旦那さんのように触れられないけどそばにいるヒト、さまざまだと思いますが

それぞれの想いを、どうか、両てのひらでやさしくくるんで大事にしてください。




そしてその想いの重さにどうか気づいて。






あなたはきっと一人ぼっちではない。


あなたの想いをそうやって手のひらにくるんで大事にしてくれるヒトがきっといるはずです。


その事に気づいてくださいね。








拓也の去年の日記に「こはるには無理をしないでほしい」と書いてありました。




最後の入院の前にも義母に「すぐなんでも一人でがんばるから、手伝うように」とわざわざ車から戻って言いつけて行ったそうです。


私には「こはるは強いから大丈夫」なんて言ってたくせに。






きっと皆さんも知らないところで守られているんじゃないでしょうか。







クリスマスやお正月、思い出すと辛い面もありますが、いないことがこんなに辛いんだと思うほど、誰かを大事に思うことが出来たことを幸せだと私は思っているんです。




そしてその幸せを与えてくれたヒトがいなくて寂しいと泣いています。


幸せなのに悲しい。それが今の自然な私です。




頑張るって、自分に無理強いするのは、ココロがキツイです。

倒れたいときには倒れましょう。起こしてくれるヒトを待ちましょう。




それでいいと思うんです。起こして欲しいと誰かを探すことも出来るでしょうし。


私は旦那さんが病気になってからいろんな出会いがあって、ヒトという財産がたくさんできました。

キツイ時は「へるぷ・み~」とメールを打ちまくります。

けっこうみんないろんな反応をしてくれて倒れかけたココロがちょっと持ち直します。




「想い」は「重い」と同じなんだよ、と私に教えてくれたヒトがいました。




いろんなことのバランスをどうしたら取れるか悩んでいたので聞いてみたら


「バランスは取るもんじゃない。倒れそうなのに倒れまいとすると変な力が入って余計に倒れちゃう。

倒れそうだな~ってただ思うだけでいいよ。




起き上がるべきときに自然に起き上がるように出来てるから、ヒトは」


というようなことを教えてくれました。






そっかぁと思って無理にバランスを取ろうとするのをやめてみたら、結構楽になって、かえってバランスよくなったような気がします。




年末のせわしない時期にみなさんのココロが少しでも軽くなれたらと思って書き込みました。


変な納得の仕方の話かもしれないけど、だまされたと思って納得してみてください。







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終わり。


ここまで読んでくれた方がいたなら。




ありがとう。

過去最高に重たいブログを

読むのも大変だったよね?




ほんとうに。

読んでくれてありがとう。






コメ書かなくていいからね。








ここに記すことで

あたしは自分をまたひとつ見つけられたから。




自分勝手に書くだけ書いてごめんね。




でも。

何かが伝わったなら。




あたしと旦那さんが過ごした日々が

誰かの背中を少しでも支えられたなら。




それだけで。






みんなの大切な人が


いつまでもそばにいてくれますように。










いつまでも/嵐