「敵だ」 | 孤独を生きる(孤独な心と人間関係を求めて)

孤独を生きる(孤独な心と人間関係を求めて)

60才で定年退職し家庭内離婚実行中の孤独なACの万年青年が、男女の交遊を求めて彷徨うさまを記録します。

昨日はテニスコートが休みだし、雨だったのでテニスの予定もなく、カラオケ喫茶にも魅力を感じなく家にいた。

一昨日もテニスは休んだのだが、まだ体が疲れていたので家でゴロゴロし、ネットでテニスのボレーの研究をし、夕方になり雨が少しあがったので、競技場のスタンドの壁で壁打ちをした。

夜風呂でのトラウマ解消では、明日(今日)のシニアグループでの態度を予行演習しトラウマを溶かした。

そこで分かったことは、シニアグループは俺の幼少期の環境と似ており、年上の女性の中で下手に出て、子どもみたいにしていればかわいがられる。

去年の七月に入った頃はそういう環境で嬉しかったが、自由に自分を発揮出来ないもどかしさがあった。

そこでドンドン「捨てる」とか「対等」だとかでイメージを変えてきた。

そして昨日分かったことは、このシニアグループから自由になることは、俺の幼少期の、俺の家に集まっていたおばさん方を中心とした地域集団や、親戚の家のおばさんやそのムスメとおじさんの集団から自由になることと同じだということだ。

要するに俺のトラウマ解消のために、シニアグループが俺の前に現れたようなものなのだ。

そして今シニアグループの女性は、たぶん2、3人の女性のプレッシャーに逆らえず、俺への攻撃的な雰囲気を許容し、その安心感からその2、3人は時々俺への言われのない口撃をしかけてきている。

これは親戚の家でのおばさんとそのムスメと同じだ。

他の女性は俺に好意的で、これは地域のおばさん方と同じだ。

他の女性の好意は欲しいが、理不尽で攻撃的な2、3人の女性に勝つためには彼女らの好意は諦めなければならないのだ。

そして今の段階でのシニアグループでのイメージは「敵だ」だ。

前からこのイメージはあったのだが、より具体的になってきたということであり、親戚のおばさんやムスメが敵だったのだ。

この「敵だ」は2、3人の攻撃的な女性にだけ適用すればいいのかもしれないが、人によって使い分けるのは紛らわしいし、常に敵を想定した態度は自他を分離した静かな態度であり、自分への裏表の攻撃には当然取るべき心構えであり、この認識なしにはそういう集団の人々には勝てないとも思われる。

日本的ではないかもしれないが、諸外国では大人の人間として当たり前の態度とも思われる。