望みは現実化する? | 孤独を生きる(孤独な心と人間関係を求めて)

孤独を生きる(孤独な心と人間関係を求めて)

60才で定年退職し家庭内離婚実行中の孤独なACの万年青年が、男女の交遊を求めて彷徨うさまを記録します。

昨日は何の予定もない月曜日だった。

秋物の種まきをしなければならないが、気持ちが乗らないのでやらなかった。

カラオケもイマイチだ。

やはりテニスがしたいのだ。

そこで午前中、テニスコートは休みなので、以前壁打ちをしていた、近くの運動施設の壁で練習した。

しかし、帰ってからも何か落ち着かない。

何かと考えたら、やはり集団なり人なりの中に入りたいという強いトラウマからのようだ。

そして、明日練習があるであろう元グループと、どういうふうに会おうかという不安もあった。

そこで集団を「捨てる」「いらない」でトラウマ解消に努めた。

俺は幼少期、自分の家庭が不和家庭だったため、親戚の家や学校、地域など外の集団に入ることを切望し、そこで認められることで欲求を満たしていたのだ。

特に親戚の家には、多分一歳ごろから行っていたようだから、そのトラウマは根深いのだ。

トラウマ解消は数時間におよんだが、効果は抜群で、家にいることに落ち着きが出てき、明日の元グループとの接触にも「いらない」の言葉とイメージで自信が出てき、捨てられるのではなく、こちらが捨てるという感覚が出て来た。

ただ火曜日の同時間帯に、相手がおらず、一人で壁打ちをするのも辛い面があり、テニスができないのが残念だった。

夕方近くになって買い物に行っていたら、この前、俺や元グループメンバーが所属する教室、テニスがうまいカッコいい女性達と3コート並行して、教室を抜けた俺とテニスしたE男から電話があり、明日またテニスをしないかと言う。

俺は飛び付いた。

「捨てる神あれば拾う神あり」か、「捨てれば与えられる」か。

そういうことで、今日はまた彼等と三つのコートで並んでテニスすることとなり、これが常態化すれば、俺が以前から望んでいたことが現実化することになる。
















そこで集団はいらない、捨てる、一人だ、でトラウマ解消した。