陰摩羅鬼の瑕(おんもらきのきず) | aya風呂

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ちょっとまた書いてみようかな(´u`)

「鶴は縁起物」を常識とする民族と、「鶴は猛禽以上の殺人鳥」を常識とする民族が、鶴の飛来という一つの事実に遭遇したとき、相手の世界観を知らないそれぞれが、相手の取る行動を見てどう思うだろうか。
「鶴だ鶴だ、めでたいことが起こるかもしれない。それにしてもあの人達はなぜ走り去ったのだろう」
鶴を見て血相を変え、わざわざ腐りかけた生木の間を縫って逃げ去っていく人たちを理解できるか。ある民族には、鶴は人を食べる、そして生木は鶴の嘴が突き刺さり抜けなくなるので、逃げるのにより安全性が確保できるという迷信があるのだ。
ひとつの事実に二つの真実。真実は世界観・常識に基づく解釈。

迷信と云うのは、通用する場所では常識であり真実なんです。ならば――僕達は、例えば鶴を恐れる文化を持つ人人に対し、それは迷信なのだと啓蒙する権利があるのでしょうか

常識というのはそれぞれの日常を生きるために必要な約款です。それは時代や場所に依って大きく違う。その約款は条件付きなのです。つまり常識は真理ではない。真理と云うのは時間性や空間性を超越して不変である筈のものですから――


珍妙な事件、詭弁と感じる言葉や微妙なズレ――自分が感じる相手からの情報
わかってもらえないという絶望感、コミュ障――自分が感じる相手への情報
それぞれの世界観に照らせばきっとどれも真実なんだ。
不必要に悪意を探して疲れることも、自分のコミュ力に疑念を抱くことも、自分の人生には役に立たないことだった。
「悪意がないならそんなことをするはずがない」という考えも、相手の世界観に対する理解がたんに足りないだけだった。
お互いの世界観が完全に一致することはないのだから、言葉を尽くして説明したなら、解釈は相手に任せればいいじゃないか。
それは投げやりや諦めではない。
どう受け取られようと自分から放たれた言動はもう相手が相手の世界を作るための材料にすぎないから、それをコントロールしようとするのは暴力だった。だから傷ついていた。
人は人、相手の世界観を尊重するという言われてみれば当たり前のことが気づかず、無駄な瑕を負ってしまっていた。

無理することはなかった。


私の中の憑き物がひとつ落ちた。




『陰摩羅鬼の瑕』