””国が手を出すとダメになる?”” | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

あゝ…


他所さまのブログ記事から一部ご紹介:
マルクスにとって消費とは「単に動物的な生活」の次元に過ぎなかったが、アーレントやレヴィナスにとっては、消費こそがまさに人間的な次元を指示していたわけである。
註)[胎児]から[物心]つくまでこそがまさに[人間的]な次元を指し示す—という《命題》は常に[真]ではないか。[ユダヤ人]とは関係ない。[自然人類学]と[自然権]の発生について考察して欲しい。[体外]から[自らの内部]に《もの》を取り込み、《もの》を[排泄]する無意識的&意識的[行為]を[消費]という(←[定義])。コレは小学生なら理解できる話だ。[体外]から[自らの内部]に《もの》を取り込み、《もの》を[排泄]する《こと》を[消費]と呼び、そのことでしか《生きもの》は自らの[エントロピー]の増大に抗い、生き存えることは出来ないのだ。コレを理解しない限り、プリゴジンは嫁ない…じゃなくてぇ…読めない。東洋医[詐称]オジサンは、嫁あるけど、プリゴジン読めない‼️という訳で…

こういうかれらの姿勢には、長らく西洋社会の労働の産物に寄生してきたともいうべきユダヤ民族の歴史が反映しているといえるかもしれない。
註)とか言ってるとプリゴジン読めない‼️という訳で、ココはブロガー氏の[勘違い]と言える。

三点目は、レヴィナスの貨幣への視線についての批判。シャイロックに限らず、貨幣への固執はユダヤ民族の本性ともなった傾向であるが、その傾向をレヴィナスも又共有していると合田は言う。
註)この指摘は、正鵠を得ている。

マルクスが「ユダヤ人問題によせて」の中で言っているように、「貨幣は金銭人間にして市民であるユダヤ人にとっての眼に見える神」なのである。その貨幣について、マルクスは(共産主義社会を通じて)究極的には廃止することをめざしたのに対して、レヴィナスは貨幣のうちに「より高度な正義の形態」を見たのだという。
註)その先に[金融工学]があり、「より高度な[正義]の形態」は[工学倫理]というカタチに結実すると[予感]していた訳だ。…つまり

レヴィナスにとって貨幣とは、ユダヤ人としての生き方を支えてくれる最も力強い神だったわけである。
註)こんな[物神崇拝]レベルの話ではない。
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という訳で…


皆さまも、お大事に。