アクチベーションの正体がキモな事情 | あ~どうしたものか

あ~どうしたものか

社会問題=PTSD現象。

“郷土なくして人生なし”
ということで[複合汚染]時代をサバイバル、平穏死を子々孫々繋いで生きましょう。

あゝ


公認心理師は、アクチベーションの正体について理解できていない精神科医たちの監督下で働くことになるわけで、仰るとおり第二の踏み絵になってしまいますね。

 そうならないためには、青山学芸心理(株式会社)さん
http://urx.blue/Ce4G
でもダメで、あり得るアプローチとしては、
翠雨先生や
中尾相談室さんのように、
ケーススタディをブログに公表していき、実力があることを見せて、相談者を受け付けることでしょうか。学会もそういう方向に若い人たちを励ましていかないとダメで、
紙くずみたいな資格商売をやめたほうが良いでしょう。
翠雨先生のこちらのブログでも
http://urx.blue/Ce4O
以下のコメントでやり取りしていただきましたね。

資格商売が先に立って、来談者の人格無視をやっているからダメなんですよね。
 他者の人格無視を進めるために症例を握り潰してしまう政治家、精神科医、学会の問題に関連して、
メリーさんのブログにコメント No. 1. 「顕現としての人間存在の不壊性」
を投稿できました。アメブロさん、ありがとうございます。
http://ameblo.jp/8677a/entry-12255537832.html#c12919039591
コメント内容:
記事にお書きの
「命懸けで駆け抜けた、私達の大切な人生の月日を抹殺されたように思う。
私達は存在している」
=「顕現としての人間存在の不壊性」、
これを無視して、ケーススタディを握り潰す行為、
それこそ「人格無視」そのものです。そういう人たちは、いなかったことにしよう、だから荒れた世相で被害を受けてPTSDを発症した人もいなかったことにしよう、
(1)隠蔽、
(2)被害者の差別(←生まれつきが悪い脳病などとして差別)、
(3)被差別者の社会的な抹殺。
これを続ける限り、人類は
「殺しなさい、あなたも殺される…」と主張する野蛮なアングロサクソンたちの罠から抜け出せません。
 すなわち、症例検討しか人類には出口がありません。

M. エリアーデ(著)石井忠厚(訳)
『エリアーデ日記(下)旅と思索と人』(1986年、未來社)p. 105
1961年の1月10日の日記に、以下のくだりがあります。
「何ものも私が生きたという事実を
変えることは出来ないからだ。
私はあった、こんなにも束の間
であったとしても。
For nothing can alter the fact
that I have lived. I have been,
if for even so short a time.
これこそまさしく私なら、
顕現としての人間存在の不壊性と
呼ぶであろう所のもの…」

なお、この部分は、
大江健三郎(著)『あいまいな日本の私』
(1995年、岩波新書)pp. 161-162
に引用されています。
あ* 2017-03-12 12:10:31
===コメント内容おわり===


皆さまも、お大事に。