「主観」と「客観」は、現代日本語では対立概念と捉えられており「客観性がある」=「科学的」という捉え方になっていて、DSMという発想も、何とか「科学めかしたい」と思って出てきたわけですね。しかし、系統も考えない「分類」をやらかしているだけで、全然、科学的になっていないのがDSMです(そこが理解できないのは香山リカ氏の科学リテラシーの低さ)。系統を考えると、無思想の集合的無意識に振り回されている孤独な群集の一員であること=現代日本のマジョリティ=「フツー」(© 岩宮恵子)であり、無意識に振り回されて「摂食障害」「リスカ」「アグレッサー」「眠りの森の美女」気取りでいることを「感情豊か」とは呼ばないのが世界的には(人類史レベルの)「常識」であり「普通」=「正常」なのですが、(そうした)無意識に振り回されにくい息子のような子が「彼ら」の手にかかると「発達障害」ラベリングや「愛着障害」(© 飛鳥井望 http://bit.ly/22JClnK )ラベリングをされます。息子のほうが人間としてマトモ だ=「認知機能が障害していない」(←観察事実)と私は確認していますが、その観察が成立するのは、私が自分の観察主体を明け渡していないからです。観察主体を放棄していない現象学者である私とは対照的に、初めから観察主体を放棄、「主体性のない知識取得」( http://bit.ly/2eadrff )によって「東大式エゴグラム」と「ADHD診断基準」に「客観性」があるという妄想に陥り、それで権威(=“dignity” http://bit.ly/28Z1tmd )づけができると思い込んでおいでなのが梅田( http://bit.ly/2f1BefV )の女医さんでしょう。
なお、“dignity” については、kmomoji1010( http://bit.ly/2f1A448 )先生のブログにも以前、コメントしました。
に franoma=あ* より
精神科医はじめPTSD否認の(教育学者や教員、幼稚園教諭、保育士、医療福祉関係者、心理学者、心理職を含む)専門家が悲劇を生み出してきた件についてアメブロのコピー機能を使って再録記事を作成し、加筆してアップデートしました。
https://ameblo.jp/aya-quae/entry-12327113397.html
@emiemi14 さまのような「自我肥大」は起こしておりませんので、拙ブログ記事くらいはアップデートしますけど、「仏教をアップデート」しようなどと大それたことは考えません。
kyupin医師は(自らブログで予告なさったように)「内因性の正体」をお書きにならないと、今のままでは社会に害毒を流すばかりだという趣旨のメッセージを、私は
@kmomoji1010 先生に送ったことがあります。お読みになったかは不明ですが。
kyupin医師は、
“dilemma”(=窮地)に陥っておいでなのかも知れないなどと思いつつ、もう
“dementia”(=晩発性PTSD)状態で、かつての小川岩雄教授のように、新たな課題に取り組むことはできないのかも知れないなどと考えていたから、ミスタイプ “d・i・mentia” をしたと思います。しかし、考えてみれば、kyupin医師は、窮地に陥ることはないことに気づきました。なぜならば、
“lemma”が2つあるから「進退窮まる」のであり、
kyupin医師の主人格は、“lemma” は唯一「PTSD否認の徹底」だけですから、意気軒昂であり、現実とは合わない妄想の世界に生きる
「妄想性障害」
=精神機能が障害した人物
=精神障害者であり、麻原彰晃さんと同タイプであるわけです。
「内因性疾患」の新規発病がなくなった現実を否認し続けて、ご本人はハッピーです。
しかし、もう一つの“lemma”=内因性疾患の新規発病がなくなった現実を早晩、認めざるを得ないことは、kyupin医師の無意識もご存じの筈です。ゆえに、表に出て来ないけれど、内因性疾患の新規発病がなくなった現実を早晩、認めざるを得ないことを知っている交代人格が「いまだにPTSD否認の徹底だけを追求することの罪悪感」を担っているのでしょう。
すなわち、
“mēns rea”(=犯意)の担い手は、その隠れた交代人格ですから、
主人格は全く犯意を自覚できません。
これは、ストーカー化なさったidthatidさまの場合も同じでしょう。
トラウマは、
“subjective experience” ではなく
“non-objective experience”