てざわりの記憶 -16ページ目

てざわりの記憶

目で、手で、耳で、時には舌で触れる日々の手触り。

その記憶。

中一日を挟んで、本日は試験二日目。

夕方から一科目あるだけなのだけれど、これも強敵「認知心理学概論」。

初日の四科目、三つはたぶん・・・・たぶん取れているであろう手ごたえだったので、このまま勢いに乗りたいところ。

・・・計量心理学は、もう蓋をあけて見なければ解りません><

それにしても、結果が返ってくるのが九月になるなんて、ちょっと遅すぎやしませんか放送大学。

後期の受講申請前に返してくれないと、計画が立たないんだけどなあ・・・。

勿論全部取れていれば問題はないのだけれど、正直厳しい。

・・・・果たしてどうなります事やら。


産業カウンセラー講座の受講と共に始まった放送大学の心理関係課程への挑戦。

いよいよ明日から、前期に受講した講座の単位認定試験が始まるのです。

明日は四つ、明後日が一つ、明々後日に二つの計7単位。

ああ、ドキドキする><

明日の山はなんてったって計量心理学!

数学が苦手な私にとっては恐怖の科目である。

あううあ、マ-クシ-トの神に降臨願うほかあるまい。

前期にダメでも後期に再試験が受けられるようにはなっている。

が、後期は大本命の産業カウンセラーの試験と重なるので、できるだけこの前期に稼いでおきたいところ。

がんばれわたし。

まけるなわたし。

日ごろの成果を・・・ダメだ、日ごろの成果なんか出したら予定ど-り落ちるではないか!

最後の足掻きでがんばろう。


 二学期が始まった。


 まだまだ残暑は厳しいけれど、それでも吹く風の中に時折秋の香りが交じり始めて、わたしたちをハッとさせる。


 時間は確実に過ぎていく。


 あれだけうるさかったセミの声も今はもうない。

彼らの恋は、成就したのだろうか。

それがわかるのは八年後の事で、その頃もうわたしはここにはいない。


 ぼんやりと教室の窓から外をながめながら、わたしはあの夏の始まりの出来事をおもっていた。

坂の工事も終わり、今ではすっかり小奇麗な手すりつきの階段だ。

その坂が「100度の坂」と呼ばれていた事も、そこでおこった事故の話も、やがては誰も知らないところへといってしまう。

この学校には(たぶん)三年間しかいないけれど、ここから出て行ったってわたしの人生は続いていくわけで。

わたしに起こった出来事はやっぱりわたしについてまわり、それから逃げきる事なんてできやしない。

できるのは、受け止め方を変えることだけ。

こんなはずじゃなかった、たくさんのことを。

あの初夏の出来事も、これから先に起こることも。

みんなみんな、そうやって生きていくんだ。


 四時間目終了のチャイムが鳴る。

わたしは一人、お弁当を持って廊下に出た。

「ねえ、リン」

背後から声がする。親友の咲枝だ

わたしは体ごと振り向いた。

「・・・さっきゅん、髪切ったんだね、かっこいいよ」

勝気な瞳にボブカットが良く似合っている。

咲枝はふふん、ありがと、と嬉しそうに微笑んだ。

「今日いっしょに食べない?話したいこともあるし」

そういって彼女は、花柄のハンカチにつつまれたお弁当箱をかかげてみせる。

咲枝の横には、最近仲のよくなった清水多恵さんが静かに微笑んでいた。

こちらはふわふわロングに眠そうな瞳。

いいかんじに好対照のふたりだ。

わたしはすこし考えて首を横に振った。

「・・・ごめんね。わたし行かなきゃ」

「はあ・・・。ねえ倫子」

咲枝は少し大げさに溜息をついて見せた。

「そりゃ、あんたの事情は知ってるつもりよ。でも、もう少し友達を頼ってくれてもいいんじゃない?」

そのことばは、心のそこからありがたいっておもった。

「ありがと、さっきゅん。あなたのこと好きだし頼りにしてる、本当よ」

わたしたちは、しばらくみつめあった。

「・・・・はいはい。じゃ今日は清水さんとふたりで食べるわ」

咲枝はそう言って、しっしっ、と手を振った。

わたしは二人に頭を下げて、階段を降りて行った。

購買に走る男子たちが猛スピ-ドでわたしの横をすりぬけていく。

まるで時間の流れに逆らうように、わたしはゆっくり、ゆっくりと歩いていった。


 「やれやれ、ありゃ重症だわね」

あきれる咲枝に、清水さんがクスリと笑う。

「仕方ないわ。だって私も咲枝さんも、もう部活にはいってるんだもの」

「それにしたってさあ、呼び込みの手伝いくらいできるじゃん」

あら、といって清水さんはまた笑う。

「だったらなおさら」

「UMAにけられてとんでいけ・・・って?」

二人は顔を見合わせて笑いあった。


 「も、なんだって一人もこないのよ!もうちょっとこう、求心力のある誘い文句かなんかないわけ!?」

わたしはだんだん、と机をたたく。

「ちょっと、倫子さん、机叩くのやめてちょうだい!」

先生の悲鳴がこだまする。

「そうだって!リン、おまえ最近乱暴だぞ!」

食べかけの弁当を机から上げて、和人が抗議する。

ここは保健室。

・・・なのだが、昼食時は臨時の自転車同好会の会議室と化しているのだった。

「い~い、和人。秋の生徒総会までに部員を集めて、部室と部費をゲットしなきゃ、いつまでたったって保健室が溜まり場になんだからね」

「お・こ・と・わ・り!」

パ-テションの向うで腕のケガをした生徒を治療しつつ、本来の保健室の主である麻里先生が答える。

「まったく、何考えているのあなたたち。ここは傷ついた生徒達の寄り代であって、部外者がごはんつぶ飛ばしながら怒鳴りあう場所なんかじゃあなくってよ!」

「冷たいわ、おねえさま」

「だれがお姉さまか!」

「いいから姉ちゃんも怒鳴るなってば」

なんてすっかり弱った様子の和人君である。ああ、なさけないったら。

「今日も放課後、いっしょに勧誘にまわるからね!掃除が終わったら校門に集合。いい、和人?」

「はあ・・・・」

なんて返事とも溜息ともつかない答え。

「溜息つきたいのは、わたしだっての」

憮然としたまま、残りの弁当をかき込むわたしなのだった。


 ・・・一年前、坂の上でおきた事故。

急勾配の坂の上で自転車ごと倒れるという事故を起した和人君は昏倒し、半年間目がさめずにいた上に片目の視力をほとんど失う、というまさに「取り返しのつかない」目にあった。

その後学校に復帰するも上手くクラスに馴染めずに姉のいる保健室に登校する日々が続いた、というわけ。

そりゃ、学校では会わないわな。

八月一日は夏風邪をこじらせてうんうんうなっていたらしい。

何とか治った次の日、「一般の生徒でない」彼は夏休み中に補修を受けるべく登校。

その日たまたま昼食にと買ってきた木津商店のカルチャ~焼きをク-ラ-の効いた保健室で食べようと持ってきたが、姉はそのとき校舎裏の坂に呼び出されていて行方不明。

仕方なくベッドの上に袋を置いてトイレに行っている間に作業員の方々の手によってわたしが保健室に搬入されたのだ。

作業員の方々はシ-ツの上にあった袋を枕もとにどけてわたしを寝かせ、その後先生の手によってカ-テンが閉じられる。

トイレから出てきた和人君は保健室の只ならぬ雰囲気に何かあったことを察し、姉の仕事の邪魔をしては悪いと昼食を諦めて教室へと戻った。

やがて起きだしたわたしの雰囲気から心情を察した姉は、どうやら弟がこの子に何かしでかしたものと思ったらしい。

弟のバッグや自転車、髪の感じを覚えている。

すわ、ひき逃げか、痴漢行為か、と考えているうちにわたしが泣き出してしまったので、とにかく慰めようとおもい・・・・。

そんな茶番劇が、たまたま下駄箱で会ったわたしの母を保健室へと案内した和人君が、母の後に続いて中に入ってくるまで続いた、という次第であった。

ああ、思い出しても顔から火が出そう。

十五の夏にして、早くも忘れたい過去ができてしまった。


 わたしはもくもくとぱくぱくとお弁当をたべる。

「リンさ、一応俺、年上なんだぜ。もうちょっと敬意ってもんを払えよ。先輩、とか、せめて和人さんとか」

む。

わたしはサトイモを挟んだままの箸を、びしっと和人に向ける。

「すべての元凶がなにいってんの!?アンタのおかげで危うくわたしまで坂の犠牲者になるとこだったのよ!」

「勝手に勘違いして自分でこけたんじゃないか。ああ、俺サトイモ嫌いだから」

「だれがやるか!」

箸をもどして、サトイモをパクリとたべる。

「そんらヒロイこと言うはけ!?・・・ごくん。いいから責任とんなさいよ!」

「理不尽だなあ・・・どうすりゃいいんだよ」

「だ~から、一刻も早く我が自転車同好会を自転車部に格上げさせるの。あ、いわずもがなだけど麻里先生は顧問ね」

「はあ・・・・」

姉と弟の溜息が重なった。

まったく、あの日第2カ-ブでわたしを置いていったアンタは、あんなにかっこよかったのになあ。


 そんなわけで、目下わたしたちは自転車部の設立を目指して奮闘中である。

和人はああ見えて、やっぱり自転車にのらせたらなかなかのモノだし、わたしもマウンテンバイクで自然の中を駆けるのがすっかり好きになってしまった。

オンロ-ドとオフロ-ドの違いはあるけれど、まあ、そこはバラエティ豊かな自転車部、ってことで。

げんなりした様子で弁当をつつく和人を微笑みながらみつめる。

「なんだよ今度は。気持ちわるいな」

「ふふん。こんどは、和人がわたしの背中を追う番だよ、ってね」

「背中どころか、車リンの下って気分だよ」

「あら、文学少年ですこと」
あきれ顔の姉弟をよそに、わたしはからからと笑った。



 あの日、100度の坂から始まったわたしの新たな日々は、こうして今も加速を続けている。

いつか終わりが来て、そこから飛び出さなきゃならなくなったとき、こうやって過ごした日々が未来へとわたしを押しだしてくれる力になるように。

わたしと同じ日々を駆け抜けた大好きな人々が、みんな、幸せな未来へと飛び出していけますように。

全体重をペダルに乗せて、わたしたちは今日も発射台の上を駆け抜ける。

いつか来る、その瞬間に向かって。

 八月二日、午前七時。


歯磨きを終えてリビングに出たわたしを見て、目をまるくした母が言った。

「倫子、どうしたの。今日って登校日だった?」

「ううん、違うけど・・・学校に用事」

制服姿のわたしはダイニングテ-ブルの椅子に腰掛けた。

「あ、ごめんね、朝食は父さんのお弁当の残りでいい?」

あんたがこんな時間に起きてくるなんて思わなくて、と母は準備をしながら言った。

「寝入りがいいもんで、朝も気持ち良いの。買ってもらったマウンテンバイクのおかげだよ。ありがとうお父さん」

わたしはお向かいに腰掛けて朝食を食べる父にウインクをしてみせる。

父は微笑んでうなづいた。


 「いってきます」

「お弁当はいらないのね?」

「うん、たぶん午前中かお昼には戻れると思うよ」

わたしはポケットから鍵をだし、通学用自転車に差し込んだ。

この子に乗るのも久しぶりだ。

いくらわたしだって、流石にセ-ラ-服姿でマンテンバイクに乗るわけには行かない。

学校が始まれば当然この子に乗って通学する事になるし、今日はどうしたってこれでなければならなかった。

今日もまた全開で鳴いているセミさんたちの声援を受け、わたしは学校、いや、あの坂へと向かった。


 キッ

小気味いいブレ-キ音をたてて、100度の坂の前で止まる。

時間は午前八時二十分。

坂の下の道にはもう数台の工事車両が来ていて、フロントガラスに足を投げ出して寝ている作業員の姿も見える。

普段なら正門へとつづく長い坂をヒ-コラ泣きながら登っているこの時間。

三十分になると門が閉められ、それ以降は生徒手帳に校長の判を押してもらわなければ教室へは入れない。

ただ、この「100度の坂」を登りきれば話は別だ。

ここを昇れば、5分もせずに本来は徒歩通学者のみが使用する裏門のすぐ横に出ることが出来る。

そこから自転車置き場とはもう目と鼻の先だ。


 最後の勝負。

わたしはぐん、と伸び上がり右足のペダルに全体重をかける。

さすがにマウンテンバイクのようには行かないけれど、この子のメンテも昨晩きっちり仕上げてある。

わたしと相棒は静かにすべりだし、並んだたて看板のすき間をすり抜けた。

トラックの横で打ち合わせをしていた人がわたしにむかって何か怒鳴ったが、当然止まるわけにはいかない。

坂にかかったとたん、ペダルに一気に負荷が掛かってきた。

わたしは全身を油圧式の起重機にでもしたつもりで、ひとこぎひとこぎペダルに力を込める。

コンクリ-トのはがされた地面はゴツゴツしていてとても走りにくかった。

だけど、おかげであの「緑の城壁」がなくなっていて、そこだけはありがたい。

坂の途中に停めてあるミニショベルの横をすり抜け、一つ目のカ-ブを曲がれば自己ベストの犬小屋が見えてくる。

あいかわらず速度は上がらなかったが、マウンテンバイクに乗っていたおかげで平衡感覚が鍛えられたのか、なんとか地面に足をつかずに昇っていける。

最初のカ-ブを曲がりきると、すぐふたつ目のカ-ブが見えた。

この第2カ-ブ、Rがキツイこともさる事ながら曲がっていく途中で坂の角度自体がさらに上がっているのだ。

いつものわたしなら、この光景に絶望したあげく犬にほえられて着地、というのがパタ-ンだった。

ふと見ると犬小屋は無かった。

工事の間は別の場所に移されているのかな。

わたしはちょっぴり寂しく思いながら、早くも汗だくになってきた全身を引き絞って坂に挑みつづけた。

そんなわたしの姿が面白いのか、坂の上にいた作業員達が上から見下ろして、お-がんばってる、などと言っているのが聞こえる。

わたしは歯を食いしばりながらふたつ目のカ-ブに挑んだ。

急な角度で曲がりながら、さらにこう配があがっていくなんて、もう、まったく信じられない。

いちばんキツイところに差し掛かったとき、ズリリッ、と後輪が砂を巻いて空回りした。

やばい。

一瞬、自転車がその場に止まった。

倒れそうになるのを必死でこらえ、バランスをとる。

大ピンチのさなか、わたしはギチギチと坂を昇っていくアイツの事をおもった。

遠ざかる背中。

お、今日の限界はそのへんか?

なんて口をききながら。

冗談じゃない。

まってなさい、今とっつかまえてやるんだから。

アンタには言いたい事が山ほどあんのよ。

止まった自転車の上でぴたりとバランスをとる。

落ち着いて体重をペダルに乗せなおし、ゆっくりとわたしはまた動き始めた。

坂の上のほうでは、お~、とか、やるねえ、なんていう言葉が聞こえてくる。


 さらにひどかった三つ目のカ-ブを曲がれば、あとは直線十五メ-トル。

わたしはガンガンと痛む頭を振って、ゴ-ルへの道を見上げた。

十五メ-トル、こんなに遠いなんて。

百里を行くものは九十里を半ばとする、とは言うけれど・・・。

坂の上では、三人ほどの作業員が、あと少しだ、がんばれ、なんて声援を送ってくれる。

わたしはうつむき、上を見ないようにした。

自分の足もとだけを見つめ、ひとこぎひとこぎ。

どれだけ進んだかわからないけど、たぶんもうすぐゴ-ルだ、と言うときに目の前が急にチカチカとしはじめた。

ああ、やばい、貧血だ!

紫色の無数の点が視界をおおいはじめ、しびれるように力がぬけていく。

そのとき

「よ~しよしお嬢ちゃんがんばったな!のぼりきったよ」

すぐそばでそんな声が聞こえた。

わたしはぼんやりと、そっか、のぼりきったかあ、なんて考える。

それでも、と最後の力を左足にかけたとき、前輪がなにか大きな段差にぶつかった。

な、なに。

一瞬だけもどった意識で見たものは、むき出しの地面と、まだはがされていないコンクリ-トとの絶望的な高さの境目だった。

そこが限界。

わたしはガッチャ~ンと派手な音をたてて自転車ごと横倒しになった。


 ・・・・・・?

意識の戻ったわたしが最初に見たものは、白い天井。

どうやらベッドに寝かされているらしい。

ベッドの周りは白いカ-テンで覆われていて、外の様子はわからない。

少し離れたところで、誰かが電話をしているのが聞こえる。


ええ、いえ、たぶん貧血だとおもいます。

熱は無いようなので、熱射病の心配は。

はい、迎えにこられますか。

いえ、まだ横になって・・・・


あの声は、学校の保険の先生の声だ。

どうやら母に連絡をとっているらしい。

するとここは学校の保健室で。

坂の上で倒れたわたしは、ここに担ぎ込まれたらしい。

わたしはなんだかすごく情けない気分になってきた。

結局、最後の最後で倒れてしまって・・・工事の人たちにも迷惑かけちゃったな。

立ち入り禁止のとこに勝手に入っていって、勝手に倒れたんだもの。

ぜんぶ私の責任なのだけれど、それで済まないのが世の中のコワイところだ。

・・・・アイツにあわせる顔がないわ。

わたしはゆっくりと体をおこし、額に手を当てる。

まだだるいかんじが残っていたけれど、歩けないほどじゃない。

カサリ、と音がした。

枕もとを見ると、なにやらコンビニ袋が置いてあった。

貧血だっていうので、起きたら何か食べられるように気を使ってくれたのだろうか。

手にとって中を覗いた。

あっ、とおもった。

中には、木津商店のカルチャ~焼きが入っていたのだ。

チ-ズクリ-ム、チョコ、野沢菜の三つに、ミネラルウォーター。

わたしの脳裏に、ある日の会話が思い出される。


 (そっか、んじゃあそれプラス木津のカルチャ~焼きふたつ。どうだ)
 (乗った。ただし三つね。ドリンク付きで)
 (・・・ま、いいか)


 アイツだ。

アイツがきたんだ。

でも、わたしが今日あの坂を登るって、いつ、どこで知ったんだろう?

約束の日にはこなかったくせに、こんなのズルイよ。

・・・だいたい、名前はどうしたのよ。

教えてくれるって、言ったじゃない。


 わたしは、ベッドを覆うカ-テンを勢い良くひらいた。

保健室の中には、受話器を持ってびっくり顔でこっちを見ている保険の先生以外、誰も居ない。

ク-ラ-の効いた部屋の中、遠くにセミの声だけが聞こえていた。


 「一年三組、羽根田倫子さん。気分はどう?」

先生は受話器を置き、机の上に置いてあった生徒手帳を手渡してくれた。

「あ、あの先生、これって誰が」

袋を差し出し、中身を説明する。

でも先生は首を傾げて

「さあ・・・。私は知らないわ。今日は登校日じゃないし、一般の生徒は居ないはずだもの」

と言った。

「やめておいたほうがいいんじゃない。得体が知れないし、何か入っていたらどうするの」

と先生は袋を受け取ると、机の上に置いた。

でも、でも。

それをもってきたのはきっとアイツで・・・そうだ、先生しらないかな。

「先生、校舎の裏に坂がありますよね」

その坂を、毎日登っている酔狂な生徒がいるはずだ。

「もちろん知ってるわ。あなた、そこで倒れて運ばれてきたのよ。なんの用があって学校に来たのかは知らないけど、工事中の坂を無理矢理登ってくるなんて」

「その・・・。あそこが階段になる、って聞いたもので」

先生は、すこしうつむいた。

「・・・そうよ。去年の新入生で、いくら言っても毎日あの坂を登ってくる生徒がいてね」

どきん

「ある日、とうとう取り返しのつかない事になってしまった。坂の頂上付近で自転車から落ちたその生徒は、打ち所が悪かったみたいで」

「え」

「それ以来、校則であの坂を登るのは禁止されていたの。入学後のオリエンテ-ションで、あなただって聞いたはずよ、まったく。それで工事が決まったのだけれど、伸び伸びになってこの夏休み中にやっと、というわけ。・・・そういえば、その事故が起こったのも、あなたが倒れたあのあたりだったっけね」

先生は深く溜息をついた。

彼もここに運ばれてきたのだろうか。

その最後を、先生は見てしまったのだろうか。

「先生、そのひとって・・・・」

「なに?」

片目だけあけてわたしを見る眼差しは、憂いに濡れていた。

「青い、スポルディングの肩掛けスポ-ツバッグを、持っていましたか」

先生の両目が開く。

「黒い、ロボットハンドルの、三段切り替えの自転車に乗っていませんでしたか」

「ちょっと、倫子さん」

「スポ-ツ刈りで・・・・背はわたしより10センチほど高くって、あとは、あと・・・」

後半は涙声になった。

先生は驚きの表情を浮かべていたが、目は答えを物語っていた。

「倫子さん、あなた・・・・。和人君を知っているの」

わたしはうつむいて口元を抑えた。

ぼろぼろと涙が落ちる。

「会ったのね、和人に」

そう言って、肩を抱いてくれた。

先生は、こんな馬鹿な話を信じてくれるのだろうか。

「そう・・・。彼、何かあなたに?」

「いっしょ・・に、白山、に登ろう、って・・・。でも、こなくて。わたし、あの坂が無くなるって知って、それで、そうしたら、もうあえなくなるきがして、かなしくて・・」

「そう。それで今日あなたは、あんなに一生懸命坂を登ったのね」

わたしはうなづいた。

「ありがとう、倫子さん。ごめんね」

どうして先生が謝るのだろう。

「和人はね、私の弟だから」

わたしは、先生にすがりつくようにして泣いた。

母が迎えにくるまでの時間、わたしはずっとずっとそうしていた。


続きます(マダカヨ!)

 腕を~前から上げて、背伸びの運動~


 朝六時、わたしは結構な人数の大人と子供たちにまじって近所の公園で「レイディオ体操」に参加していた。


 わたしが小学生だったころは、子供たちしか参加しない行事だったのだが、昨今の社会事情もあって父母が一人は参加するということになり、それならば、ということで高齢の方々を中心にご近所の面々が参加するようになった次第だ。


 わたしが、しょうがくせいのころ――か。

周りに気を使って、少しだけ小ぶりに腕を回しながらわたしは考える。

なんだかずっと昔のような、ついこのあいだのような。

高校生なんて、まるで違う星の人間のように思えていた、マメ人形みたいにチビだったくせに何でもできる自信に満ちていたころ。

数え切れないほどの道を前に、そっぽを向いて笑っていられた贅沢な季節。

あれから数年、いろいろあってわたしはこんなところにいる。

どんなに無数の道があったところで、結局、歩ける道はひとつしかありはしない。
ちらり、と隣の少女を見ると、日に焼けた腕をぶんぶん振って、キラキラに元気よく体操していた。


 八月一日、アイツと約束した日。

早朝だというのに、朝からセミさんたちは全開だ。

今日は今日しかないって、彼らは知っているんだ、きっと。

大脳新皮質の、もっとずっと深いところで。


 「タオルよし、ペットボトル二本よし、おべんとうよし」

シャワーを浴びた後部屋で全身に日焼け止めクリームを塗り、ベッドの上に広げた持ち物を指差し確認する。

「冷却剤よし、応急セットよし、デジカメよし」

半袖、半パンの白いスポ-ツウェアを着て帽子をかぶり、UVカットのサングラスをかける。

いざ出陣。

マウンテンバイクの整備は、昨晩終わらせてある。

「いってきます」

真新しいスポ-ツシュ-ズをひっかけて、わたしは外に出た。


 佐野植物園はゴミ焼却場の熱を利用して作られた熱帯植物園を中心に、かなりの広さを持ったきもちのいい公園だ。

ただ、場所自体がへんぴな所にあるのと宣伝不足のせいであまり人気が無い。

わたしは正面入り口にマウンテンバイクを停めて、入ってすぐのひさしのあるベンチに腰掛けた。

午前八時四十分。

アスファルトからは早くもゆらゆらと陽炎が昇り、太陽は今日も一日熱血していくつもりらしい。

あいかわらず全開で鳴りつづけるセミの雄たけびを聞きながら、凍らせておいたミネラルウオ-タ-のボトルを額に当てた。

・・・あの坂が無くなるって聞いたら、あいつ、何て言うかな。

わたしは少しじれながら、約束の時間が来るのを待った。


 み~んみんみんみん

命みじかし、恋せよセミさん。

夏の風物詩とはいえ、こんな大量に、しかも大きな音で鳴かれたんでは情緒もへったくれもない。

切羽詰った事情があるとはいえ、よくもまあ一日中鳴いていられるもんだ。

そう、一日中。

とうに役に立たなくなってしまったひさしの下、わたしは半分食べたお弁当をッデイパックの中にしまいこむ。

午後二時四十八分。

わたしはノロノロと立ち上がり、デイパックを背負った。

・・・なにやってんだか、わたし。

もう三時になるよ、三時。

これが遅刻なんかじゃないってことはとうにわかっていたはずじゃない。

なにもこんな時間までここにいる必要なんかなかったんだ。

・・・でも、今日この日にここに来る、と決めていた心と体は、ここ以外のどの場所にも居場所が無いような気がして。

結局三時。

ボトルの中のぬるま湯を、どぼどぼと愛車のハンドルとサドルに掛ける。

こうしないと、乗るどころか熱くてさわれない。

わたしは金属部分が肌に触れないように少し遠めにハンドルを持つと、手で押しながら公園に別れをつげた。


 すこしだけ涼しくなった風が汗まみれのからだに心地いい。

わたしは全力でマウンテンバイクを走らせる。

家に帰る前に、寄って確かめたいところがあった。

ふだんは通らないあぜ道や田舎道を選んで走る。

途中、たんぼの中からトンボが2匹やってきて、わたしに伴走してきた。

アップダウンを力強くクリアしながら、わたしは、自分に準備がととのってきたのを知った。


 目的地に着く頃には夏の空もだいぶ紫がかり、ぽつぽつと街灯が灯り始めていた。

わたしは100度の坂の前にいた。
見上げると、コンクリ-トはすっかり剥がされて地面が剥き出しになっている。

工事計画の看板を見ると、明日から地面を掘り返しての各種配管工事が始まるらしい。

工事の開始は、9時となっていた。

それだけ確かめると、えいやっ、とマウンテンバイクを反転させ、全速力で家へ向かった。

・・・門限、まにあうかな。