大きな破裂音がして、俺は飛び起きた。

 全身汗まみれになっていた。

 呼吸が上がっている。心臓が早鐘のように鳴っている。

 夢だったのか・・・・・。

 右手で脇腹に触れてみた。そこに傷はなく、痛みもなかった。

 時計を見ると、夜中の3時を少し回ったところだった。

そこは司令室だった。俺はどうやらこのソファの上で、眠ってしまっていたらしい。

 それにしても・・・・妙な夢だった。

 まるで誰かの記憶が、俺の脳内に流れ込んできたかのようにリアルで、生臭い夢だった。

 喉が乾いていた。俺は大きく一つ息をつくと、飲み物を調達するために部屋を出た。

 夢の意味を考えながら廊下を歩いていたが、何やら外が騒がしい。さっきも破裂音が聞こえたような気がしたが、何かあったのだろうか。

 屋根裏へ通じる階段の前を通りかかった時、物音はそこから聞こえてくるのだとわかった。

 俺はいぶかしがりながら階段を登った。

 「あ!じゅりいぬ!ちょうどよかった!うさばっちがこわがっちゃってタイヘンなんだよー!はやくきて!」

 屋根裏からむらいぬが呼ぶのが聞こえた。部屋を覗くと、ひろねこといぶねこが窓の前に立ち、うさばっちのものと思われる窓の外にぶら下がっている足を支え、一生懸命上へと押し上げようとしているところだった。

 「・・・・・・・・・・・・・お前ら何やってんだ、こんな夜中に・・・!」

 俺は思わず語気を荒げて言った。あいつらが屋根の上に上がろうとしていることは明白だった。だがこんな夜中に、慣れない奴らだけで登って、事故でも起きたらどうするんだ?

 現に何かを下に落としてしまったらしく、屋根の上からあー壊れちゃったよーというしょまはむの声が聞こえてきた。おそらく先ほど聞こえた破裂音は、それに関係するものだったんだろう。

 「りゅーせーぐんを見たいねって話になって、みんなでこの時間に待ち合わせしたんだよ」

 いぶねこが無邪気に言った。

 俺はため息をつきながら、小走りに窓辺まで駆け寄った。隙間から見上げると、うさばっちの腕を屋根の上からねこおうじが一生懸命引っ張り上げているのが見えた。

 「・・・しょーがねーなー・・・」

 俺は外に背を向ける形で窓枠に腰掛け、うさばっちの両足を自分の肩にかけさせる形でホールドした。おいねこおうじ、しっかりタイミング合わせて引けよ、いちにーの、さんっ!という掛け声と共に、俺は窓枠の上に立ち上がった。

 うさばっちは自動的にぐいっと押し上げられる形となり、なんとか無事に屋根の上に上がることができた。

 「あの・・・・じゅりいぬさん、すみません。ありがとうございました」

 蚊の鳴くような声で、うさばっちが言った。

 俺はわざとそれを無視して、下に居る奴等に声をかけた。

 「登るなら早くしろ。俺の気が変わらないうちにな」

 

 結局全員が屋根の上に登った。俺は自分の場所が乗っ取られたような気になってちょっと不機嫌だった。

 うさばっちがそんな俺を気にして言った。

 「私が流星群を観たいって言ったんです。そしたらむらいぬさんが、この屋根の上が一番よく見えるんじゃないかって提案してくださって・・・。それでこんな無茶をしてしまいました。申し訳ありません」

 するとすかさずひろねこがフォローに入った。

 「いえ、ぼくもいけなかったんです。じゅりいぬさんの仰る通り、真夜中に不慣れなぼくたちだけで屋根に登ろうなんていう考えが無謀でした。ぼくがひきとめるべきだったんです。本当に、すみません」

 「えーでも、結果的にみんな登れたんだから良かったじゃん♪しかもみんな揃って登ったよー!」

 周りの空気なんてお構いなしにいぶねこがはしゃぐ。

 「じゅりいぬ、お前細かいこと気にし過ぎだぞ。今日は大きなイベントなんだからさ、大目に見たっていーじゃんか」

 ねこおうじが吹っかける。

 「双眼鏡は落としちゃったけど、ここは見晴らしがいいし必要なかったかも。流星群を観察するにはちょうどいい場所なんじゃない?」

 しょまはむが飄々と言う。

 「それよりじゅりいぬ、今日は帰ってなかったんだね。ぼくたちてっきりじゅりいぬはいないと思ってたから・・・。でも、いっしょに見にこれてうれしいよ!」

 そう言ってむらいぬは空を見上げた。

 その言葉に、みんなも一斉に空を見上げる。

 「・・・・・ったく、世話の焼ける奴らだ」

 俺は半ば諦めて、屋根の上に寝転んだ。

 南の空には、オレンジ色をした13番 目の月が浮かんでいた。今夜は月が明るすぎて、流星を観測するには条件があまりよくないんだよとねこおうじが言った。なるべく暗いところを見ればいいんで すよねとうさばっちが答える。ねー流れ星もいいけどあのお月さまもキレイだよねーといぶねこが言う。そうですね、でも今日は月じゃなくて星を見に来たんで すよとひろねこが答える。こんな夜中だっていうのに、みんなとても元気だ。

 その姿を見ているうちに、いつの間にか俺の機嫌も直っていた。なんだか平和な夜だ。とても静かで、なおかつ賑やかだ。・・・・こいつらのせいだけどな。

 「あっ!!いま見えたよ!ながれぼしー!!」

 むらいぬが北西の方角を指して叫んだ。

 えっ!どこどこ!?見えなかったよー!本当に?

 それぞれが感嘆符の付いた言葉を口にしながら、むらいぬの指した方向に目を向けた。

 すると、むらいぬの言葉が封切りの合図だったかのように、ひとつ、またひとつと、星が流れ始めた。

 「あー!見えた!今ボクにも見えたよー!」

 「ぼくも見ました。きっと同じ星ですね、いぶねこさん」

 「あ、今こっちにも流れたぞ。うさばっち見えた?」

 「はい!私も今、ねこおうじさんと同じ星を見ました!」

 「流れ星を見たら、願い事をすると叶うっていう迷信、皆んな知ってる?」

 「しょまはむお前、なんてこと言うんだよ。迷信だとかさー。うさばっちは楽しみにしてたんだから、流れ星に願いかけるの」

 「迷信かも知れないですけど、ロマンチックじゃないですか。実はぼくも願い事、考えてきたんですよ」

 「ひろねこの願い事って何?」

 「あはは、ナイショです☆」

 「えーーずるい!それならボクも願い事考えてナイショにしーよおっと♪」

 「えっでも、いぶねこがねがうのは、きっとあのことだよね?」

 「さーて、どうかなー??」

 こんな風に楽しげに話している間にも星は流れ続けた。決して数は多くなかったが、俺はかえって安心した。

 流れ星に願いごとをすると叶うという話とは別に、もう一つ迷信があったことを思い出していたからだ。

 星がひとつ流れる時は、命がひとつ消える時。

 確か昔どこかで、そんな話を聞いたことがあったような気がする。

 だから俺は、流星群を観察しようという話に乗り気じゃなかったんだ。

 昼間のそんなことが頭のどこかに残っていたから、あんな夢を見たのかも知れない。

 夢の中の俺だった誰かは、あれからどうなったんだろう。

 あのまま、引き金を引いたのだろうか。

 それとも、敵兵の弾丸の餌食になったのだろうか。

 それともあのままあそこで、失血死したのだろうか。

 あれがもし、ずっと昔、66年前の今日本当に起きた出来事だったのだとしたら、あと数日早く戦争が終わっていれば彼らは生きて帰って来れたのかも知れないんだと、俺は思った。

 もしも流れる星の数だけ、命が失われているんだとしたら、今夜はどこかで大勢人が死んでいるということになる。B29が空を飛び、大量の焼夷弾の雨を東京に降らせたあの日のように。

 あの日の夜も、たくさんの星が流れたのだろうか・・・・。

 ・・・馬鹿馬鹿しい。そんなことがあるわけがない。やっぱりこれは、ただの迷信に過ぎない。

 だからどうせなら俺は、もうひとつの迷信の方に賭けてみることにした。

 ふとうさばっちを見ると、昼間持っていたあの折り鶴を手のひらに乗せて、じっと空を見上げている。

 ねこおうじと隣同士で仲良く空を見上げるその表情はとても穏やかで、満ち足りているように見えた。なのに何故かどこか悲しげな印象を受けたのは、きっと俺の思い違いだろう。

 そんなことを考えていると、視線を感じたのかうさばっちが振り返り、俺を見た。

 「じゅりいぬさんは、何をお願いするのですか?」

 俺はわざと夜空を見上げたまま答えた。

 「決まってるだろ。俺の願いは、ただひとつだ」

 ふと表情を崩し、うさばっちは笑った。

 「そうでしたね。愚問でした」

 それを聞いて、ねこおうじが言った。

 「その願い、本当に叶うのかな・・・・」

 しょまはむが答えた。

 「それはきっと僕達次第、じゃないのかな」

 ひろねこが言う。

 「ええ、きっとそうです。ぼくたちならできます、きっと」

 いぶねこがはしゃぐ。

 「あったりまえじゃん!みんながいれば、絶対ぜーーったい、叶うはずだよっ♪」

 そしてむらいぬが言う。

 「ぼくらにできることを、ちゃんとやろう。あきらめないで、ひとつひとつ、ちゃんと・・・」

 その横顔はとても逞しく、頼もしく見えた。

 「そうだな・・・・まずそのために、俺ができることは・・・」

 よっ、と短く掛け声をかけて起き上がり、うさばっちの手のひらの上に乗っている折り鶴の尻尾の部分をつまんで持ち上げた。そしてそれを自分の手のひらの上にそっと乗せた。

 「こいつの作り方を教えてもらうことだな」

 俺がそう言うと、えーーーっ!?とみんなが一斉に俺を見た。

 「な・・・・なんだよ、可笑しいかよ?だって千羽折らなきゃならないんだろう?なぁうさばっち」

 昼間の会話を思い出したのか、うさばっちはとても嬉しそうな顔で頷いた。

 「・・・はい、そうです!千羽折るんです。みなさんも、手伝ってくれますか?」

 「・・・そうか、千羽鶴」

 しょまはむが微笑んで言った。

 「みんなで折れば、きっとすぐですね」

 ひろねこが頷いた。

 「俺にできるかどうかわかんねーけどさ、でも祈りながらひとつずつ折ることは、できるかも知れない」

 俺は折り鶴の繊細な造形を見ながら言った。俺が折ったらきっと、グチャグチャになっちゃいそうだけどな。

 「形なんてどうでもいいじゃん。気持ちがこもってればなんでもアリだよね?」

 「そうだよ。ぼくにもおりかたおしえてね、うさばっち」

 「・・・・・でもじゅりいぬが鶴を折ってるところなんて、長い付き合いだけどおれにはとても想像できないな・・・プププ!」

 「・・・・おいねこおうじ、お前もう一度言ってみろコラー!」

 「あ!見てください!!!」

 うさばっちの声に、俺たちは一斉に空を見上げた。

 西の空に、ひときわ大きく光る流れ星がひとつ、長い軌道を描いて落ちてゆくのが見えた。

 それはとても明るく、輝いていた。

 みんなで同じ夜空を見上げ、同じ星を眺めている。

 今ここに居ないあいつも、きっとどこかで同じ星を見上げているに違いないと、そう俺は思うことにした。

 今夜はきっと、幾千もの星が流れるのだろう。

 そのほんの一部しか、俺たちの目には届かないけれど。

 その星たちの一つ一つに願いをかけて、それがすべて叶ったら、きっとみんなが暮らしやすい、平和な世の中になるんじゃないかって、そんな幻想をいだいてみたりして。

 千の星に願いをかけることはできないから、人はきっと千の鶴を折るんだろうな。

 そのひとつひとつに、ゆっくりと、大切に胸の中であたためた、祈りを込めて。

 

「ねぇねぇ、今日の夜中って、ペルセウス座流星群が見れるんだってよ!」

「ペ・・・・・ペル・・・・・何だそれ?」

「だからぁ、『ペルセウス座流星群』! 要するに流れ星の集団に遭遇できるってコトだよ!」

 いつになく興奮気味なねこおうじが、得意の占星術関係の記事を新聞から引っ張ってきて熱弁を振るっていた。

俺はそういうのに大して興味もないし、細かいことは理解出来ないから、ねこおうじが流星群とは何かということについてそのへんにいたメンバーを捕まえて講釈を垂れている間に、こっそりと部屋を出た。

 最近は夜になっても気温が下がらず、熱帯夜とかいう寝苦しい日々が続いている。おかげでいつも眠りは浅く、適度に酒を引っ掛けて帰ってもどうにも熟睡できた気がしない。

 眠れないとさ、余計なこと考えちまうだろ?

 だから俺は基本的に、夏は好きじゃない。

 

 廊下の角を曲がった時、危うく誰かと鉢合わせしそうになった。

 当たりそうになったことを謝ろうとして目を上げると、相手はうさばっちだった。

 見ると彼女は、手のひらに大事そうに何かを乗せている。

 紙で出来た・・・鳥のような形の小さな何かだった。

 「それって、何?」

 なぜだか俺は反射的に尋ねていた。だってあまりにもうさばっちが、それを大事そうに運んでいたものだから。

 「これですか?これは、『折り鶴』ですよ」

 「おり・・・・ずる・・・?」

 俺の顔をみてクスッと笑ってからうさばっちは言った。

 「そうです。折り紙で折った鶴です。平和祈念だとか、病気平癒だとか、そういうことを願って作ることから始まった手遊びですよ」

 「ふーーーーん・・・・」

 「・・・・どうぞ」

 めずらしく折り鶴とやらに興味を示した俺に、うさばっちは自分の手に持っていたものを差し出した。

 「え・・・?」

 「どうぞ。じゅりいぬさんに差し上げます」

 「え、いいのか・・・?」

 「はい♪」

 にっこり笑って、うさばっちは答えた。

 俺はなんだか大事なものをもらってしまったような気がして、どうしたらいいかオロオロしていた。

 するとうさばっちは、そんな俺の心情を見透かしたかのようにこう言った。

 「簡単に作れるんですよ。よかったらじゅりいぬさんにもお教えして差し上げましょうか?」

 真っ白い耳を片方ちょこんと曲げて、うさばっちは俺を見た。今や自分の手のひらの上に移った、紙で出来た鳥のようなものをしげしげと眺めながら、これはとても俺には作れないだろうと思った。

 「あ・・・いや、いいや。たぶん俺、こんな繊細なの作れねーと思うし」

 そう言いつつ、手に余った折り鶴をうさばっちに返してしまった。

 半ば押し付けられたように返された折り鶴を受け取りながら、ほんの少し残念そうにうさばっちは言った。

 「そうですか?本当に簡単なんですよ?」

 そして手のひらに戻ってきた鶴の頭と思われる部分を、人差し指でそっと撫でた。

 「千羽鶴って聞いたことあります?これと同じものを、千羽折って、繋げて作るんです」

 「千羽!?」

 「はい、千羽です。千回もこれと同じものを折らなきゃならないからとっても大変な作業ですが、千回分の思いが込められているでしょう?だから願ったり、思ったり祈ったりする気持ちも、この一羽の鶴なんかより、よっぽど強いんだと私は信じてます」

 手のひらに乗せた鶴を、自分の目の高さに掲げてうさばっちは言った。まるで紙で出来たその鶴に向かって『飛べ』とでも念じているかのように、折り鶴をじっと見つめていた。俺は何故だかその姿から目を背けることができなかった。

 神々しいような何かが彼女を、包み込んでいたような気がしたから。

 

 「そうそう、そんなことはともかく、今日の夜中にペルセウス座流星群がピークを迎えるらしいですね。じゅりいぬさん、見に行きますか?」

 さっきまで鶴の話をしていたのに、いきなり放課後の女子高生風情な明るさに満ち溢れながら、お前まで流星群の話をするのかと、若干被害妄想的な何かに襲われそうになりながら俺は答えた。

 「そうらしいな。さっきねこおうじが言ってた」

 俺の言葉を聞いて、うさばっちの顔色がさらに明るくなった。

 「私もねこおうじさんに教えてもらったんです。よかったらみんなで流星群、見に行きませんか?」

 キラキラした瞳で、うさばっちが俺を見る。

 「・・・・わりぃ。俺、そういうの興味ねーんだ」

 最後までうさばっちの言葉を聞かずに立ち去ろうとした俺の背中に、うさばっちは言った。

 「興味ないんですか?意外です。話によればじゅりいぬさんは、いつも屋根の上に登って天体観測をしてらっしゃるとか・・・」

 歩き去ろうとしていた俺は思わず立ち止まり、振り返った。

 「・・・それ、誰に聞いたんだ?」

 「むらいぬさんです」

 「・・・・ちっ。あいつ、誤解されるようなこと言いやがって・・・」

 俺があの屋根に登るのは、別に天体観測するためじゃねーっつーの。

 「・・・違うのですか?」

 首をかしげ、愛らしい表情を浮かべたうさばっちが尋ねる。

 否定しようかとも思ったが、なんだかめんどくさくなってしまった。

 「ちげーよ。ほっとけ」

 それだけ言うと、俺はその場を去った。

 

 その日の夜、妙な夢を見た。

 それはどこか遠い南の国で、遠くから銃声のようなものが聞こえていた。俺はじっとりと湿った地面に横たわり、その音を朦朧とした意識の中で聞いている。

 気づけば右の脇腹に激しい痛みがあった。生暖かいものが心臓の鼓動に合わせ、痛みを感じる部分から周囲に広がるように流れ出ているのがわかった。目を開けて周囲を見回したが、思うように首が動かず、ただ鬱蒼と茂った棕櫚の樹と、その枝葉の間から覗く真っ青な夏空だけが目に入った。あとは湿った土と苔のにおいと、鉄錆のような強烈な異臭が混じり合い鼻を衝く。さらに濃い硝煙のにおい・・・・。次第に呼吸が浅くなっていくのを自覚しつつ、俺はなんとなく理解した。

 ここは・・・・戦場だ。

 俺は戦争に出兵した兵隊で、負傷しておそらく瀕死の状態だ。

 断続的に鳴り響く銃声に混じって、時々人の声が聞こえる。

 それは追い詰められた人間の怒号のようなもので、すぐ近くで戦闘が繰り広げられていることを示していた。俺は戦場の真っ只中で倒れているのだった。

 敵にやられ、重症を負った俺は、このままここに打ち捨てられるのだろう。

 戦況は恐らく不利だ。俺がここから、生きて本土に戻ることはない。

 そう思うと、自然と目尻を涙が伝った。

 あの日、故郷に残してきた者たちを思う。

 みんな無事だろうか。

 腹を空かせてはいないだろうか。

 そして何より、生きていてくれているだろうか。

 出征の時、涙を堪らえ手を振り見送ってくれたあの姿を思い出す。

 あれが今生の別れとなってしまった。

 できることなら、もう一度会いたかった。

 もう一度この手で、彼らをかき抱きたかった。

 せめて最後に一目だけでも、彼らの顔を見たかった。

 その願いはもはや、叶いそうにない。

 痛む脇腹を押さえ、生ぬるい拍動を感じながら俺は目を閉じた。

 意識が途絶えるその時を、静かに待った。

 だがその時、一人の男が駆け寄ってきて、俺の名を呼んだ。

 「おい!しっかりしろ!目を開けろ!!!」

 そして俺の頬をピシピシと叩いた。

 俺は目を開いた。ぼやける視界の中に必死の形相で俺を抱き起こそうとする男の姿があった。

 「立てるか?今のうちだ、撤退するぞ!」

 その男は俺の腕の下に自分の身体を滑り込ませ、立ち上がらせた。腹に激痛を感じながらも、俺はなんとか両足に力を込めて、重い自分の身体を支えた。

 むせ返るような土と硝煙と汗と血の臭い。夏の暑い日差しとまとわりつく湿度。そんなものたちの中を、俺は仲間に支えられ走った。

 敵から逃れるために。

 生き延びるために。

 明日という日を、迎えるために。

 夢中で、俺は走った。

 家族に再会できる、明日に向かって。

 だが、俺のその夢はあっけなく潰えた。

 眼の前に、一人の敵兵が立ちはだかったのだ。

 手には自動小銃を持っている。

 異国の言葉で何やら叫びながら、間合いをじりじりと詰めてくる。

 鳶色をしたその目には、敵意と憐れみの入り混じった感情が浮かんでいた。

 恐らく降伏を促しているのだろう。捕虜になれば生き残れる道はある。

 武器を捨て、両手を上げれば、生きて本土に帰れるかも知れないのだ。

 だが、俺の隣にいる男は、それを選択しなかった。

 俺を支える腕をほどき、数歩前へ出ると、近づいてきた敵の顔面に唾を吐きかけたのだ。

 敵兵の顔色が、一瞬にして変わった。

 それまでわずかながらに浮かんでいた憐れみの色が、鳶色の瞳から完全に消えた。

 憎しみで満たされた両目を剥いて、敵兵は男に向かって銃を構え、放った。

 血しぶきが飛び散り、男は倒れた。

 ひどい硝煙の臭いが鼻を突き、俺は思わず吐きそうになった。

 いやだ・・・・・死ぬのはいやだ・・・・誰かが死ぬのを見るのもいやだ・・・・・

 何故こんなことに?何故、誰のために、俺たちはこんなことを?

 痛みと吐き気に襲われながら、俺はがっくりと膝を折った。

 敵兵が何かを叫びながら、俺の目前へと迫った。

 殺される・・・・そう思った瞬間、俺の身体は反射的に動いていた。

 倒れている仲間の持っていた銃を、とっさに手にした。

 そして敵兵に向かって構えた。

 敵兵の目に一瞬驚きの表情が浮かぶ。

 銃を構え、睨み合う格好となった。

 だが、そうしている間にも傷口からの出血は続いている。吐き気と頭痛が酷い。目がかすみ、意識が朦朧としてくる。いやだ・・・・死にたくない・・・・俺はまだ、死にたくない・・・・・!

 ここで落ちたら負けだ。俺は確実に殺される。何度も目を瞬いて、意識を保った。

 敵兵は何かをつぶやいていた。俺を説得しようとしているのか、それとも祈りの言葉なのか。だがその目には確かに、先ほどとは違う怯えの色が宿っていた。

 俺は迷った。ここでこいつを殺さなければ、俺がやられる。だが、それを躊躇する自分がいる。

 この男にもきっと、家族があるのだろう。生きて帰れば家族と再会できるのかも知れない。そんな考えが頭に浮かんできてしまい、振り払おうとしても駄目だった。

 それに・・・・人を殺すなんて・・・・・・

 いやだ。死ぬのはいやだ。誰かが死ぬのを見るのもいやだ。そして、人を殺すのは・・・・

 もっといやだ。

 俺には殺せない。たとえ、戦場に来てまで何を言うかと将校に蹴り飛ばされ罵られたとしても、俺には人を殺すことはできない。

 鬼畜米英だとかいうラベルを無理矢理貼りつけ、感情を抱かせないようにしているが、そんなものはこけ脅しにすぎない。

 だってこの男は、今俺の目の前で生きている。口から生臭い息を吐き出して、額から汗を滴らせて。

 両目を見開き怯えながら、小刻みに震えている。

 俺が今引き金を引けば、この男は死ぬんだ。

 死んで、ただの屍となる。

 俺にはそんなことはできない。

 人の命を奪うなんて、そんなことはどうしてもできない。

 誰に強要されても無理だ。

 もうやめよう。

 やめて、それぞれの国に帰ろう。

 俺は思わず、そうつぶやいていた。

 だがそんなことが許されるはずもない。

 叶うはずもない。

 目の前の敵兵に、伝わるはずもない。

 それが証拠に、敵は今まさに俺を撃とうとしている。

 引き金にかけた指に、力が込められたのがわかった。

 迷っている暇はない。

 殺らなければ殺られるんだ・・・・

 まるで何かを吹っ切るかのような雄叫びを敵兵が上げた瞬間、俺もまた絶叫していた。

 そして手にした銃の引き金を引いて――――――――

 

 

 

蝉が鳴き、真っ白な入道雲が真っ青な空を彩る、夏。

 御囲周辺は緑が多く、涼しげでいいけれど、大量の蝉が一斉に喚きちらすものだから五月蝿くておちおち昼寝もできやしない。

最近はニクショークの表立った動きもなく、犬のからあげを持ち妙な歌を歌って精神攻撃をしかけてくるザコが一匹出現した程度だ。恐らくは、ムラネコがあの女を牽制してくれているんだろう。

あの日以来時折あいつは司令室にふらりと姿を見せるようになった。綱吉司令と何か話して帰って行くようだが、俺は敢えて何も聞かないし、触れないようにしていた。いぶねこやむらいぬは喜んでいるようだし、とりあえずの形としてはアリなのかなとも思う。

まぁ何にせよ、平和なことはいいことだ。

今度精神攻撃のような厄介な術を仕掛けてくるニクショークの手下が現れた時のために取るべき手段について軍議が開かれ、クールな軍師しょまはむを中心に対策が話し合われた。しょまはむが仲間に加わってからというもの、戦略が理路整然と簡潔にまとまるようになった気がする。以前はだいたいがねこおうじの占いと俺の直感で決められていたから、結構行き当たりばったりなところが多かったが、このハムスター、まるっきり客観的に冷静に分析する奴で、時々味方すら犠牲にしかねない戦略を提案してきてみんなが度肝を抜くくらい、敵を殲滅するということにかけてははっきりとした考えを持っている。

しょまはむが無謀な提案をしてきたら、だいたいはうさばっちが女の子らしくやんわりと常識的に否定して、結局否決されて終わるから、俺たち一同ホッと胸を撫で下ろすといった感じだ。

そんなこんなで、その日は軍議が終わってもしょまはむが熱弁を振るい続け、うさばっちとねこおうじが応戦していたから、退屈になった俺は隙を見て司令室を抜け出し外に出た。

だいぶ日が短くなってきたようだ。夕方と夜の間があっという間に過ぎゆくように感じる。薄暮の路地をゆっくりと歩くと、空き地の片隅に咲くオシロイバナが、赤く白くあたりを染めつつ香りを振りまいているのが目に入った。これは、夏の夕暮れの色と匂い。何だか訳もなく懐かしく、郷愁を誘う。俺には故郷と呼べる場所など無いのに、遠く懐かしい昔に帰りたくなるような、そんな不思議な光景だった。

そしてその時、俺はふとある人のことを思い出した。

優しく、時に厳しく、凛としているがどこか寂しげに佇むひと。いつもあの笑顔で俺を迎えてくれて、情けない俺の取り止めのない話を聞いてくれる。そして励ますでも、叱りつけるでもなく、ただ自分の思うことをつらつらと話して聞かせてくれる、あの美しいひとのことを。

今頃、どこでどうしているのだろう。

 
 

気づけば俺は、路地裏の雑居ビルの一室にあるバーの扉を開けていた。

カウンターの中には、白い着物に眼帯姿の、無愛想なうつけが一人。

しょまはむは本部にいたから、きっと一人だろうと当てをつけて来たが、やはりいつものように客は誰もおらず、ママは一人で所在無さげにグラスを磨いていた。

店に入ってきた俺の顔を見た瞬間、一瞬ママの表情が強張った。気まずい沈黙が流れる。だが俺は構わず、いつもの席に座った。

目の前におしぼりとコースターが無言で置かれた。しばらくしてから何にするのと聞かれ、今日は酒が飲みたくて来たわけじゃないことに気づいた。

「何でもいい。任せる」

無責任な注文をした俺に、ママは小さくひとつため息をついてから、酒を作り始めた。

グラスの触れ合う音、液体が注がれる音、マドラーでステアする音、着物の袖が擦れ合う音。そんなものに混じって、いつもの店のBGMが聴こえる。以前からずっと変わらない、古臭いロマン歌謡だ。

見慣れた店の中を見渡す。煤けてしまった壁、天井についた雨漏りのシミ、年季の入ったほんの少し黴臭い、狭い空間。俺はここが昔から好きだった。そう、初めて来た時から。

そんなことをぼんやりと考えていたら、いつしかカウンターにグラスが置かれていた。それを見て思わず俺は、ママを見上げた。

「カクテルとかあんまり飲まないイメージだけど、なんか今日はずいぶんとしおらしいからさ」

俺を横目で一瞥しながら、ママは言った。そして煙草に火をつけた。

確か前にもこんなことがあったな・・・・。あまりの偶然に、一瞬どきっとした。

「別にしおらしくなんかねーよ」

俺はつぶやくようにそう返すと、グラスの縁を飾る雪の結晶を舐めた。それはとてもしょっぱい味がした。

切り出すタイミングを見つけられずに、俺はしばらく黙っていたが、ママも何も言わずカウンターの中で煙草をふかしていた。流れるロマン歌謡が嫌でも耳に入り、余計に静けさを引き立てる。

そうだ、と何かを思いついたように小声でつぶやいたママが、後ろを向いて何かをし始めた。するとやがてそれまで流れていたロマン歌謡に変わって、ジャズの名曲が流れ始めた。

「コルトレーンか・・・。意外だな」

「意外ってどういう意味?」

 皮肉でも言われた時のように、ママはチラリと俺を睨んだ。

俺は急いで言い訳した。

「いや、別に大した意味はない。この店にジャズが流れるってことが、少し意外だっただけだ」

深く吸い込んだ煙草の煙を、少しだけすぼめた唇から細く長く吐き出して、ママは言った。

「好きなのよ、コルトレーン……。いつもは店の雰囲気じゃないから、かけないだけ」

それに……ここはNOBUママの店だから。誰に話しかけるでもなく、まるでひとりごちるようにママは呟いた。

俺はわざと、聞こえないふりをしてグラスを傾けた。

ウォッカベースのカクテルは甘くなく、俺の口に合った。あの日飲んだのはもう少し苦かったかも知れない。いや、違うな。確かもっと、しょっぱかったんだ。

優しく力強いジャズの音色が、やがて俺の背中を押した。この前ここに来た時以来、ずっと気になってたことを、クリアにするために今日俺はここに来たんだ。

俺は顔をあげ、やや上目遣いにママを見上げて言った。

「この前は……済まなかったな。俺、言い過ぎた」

眼帯をしていないママの左眼と、俺の目が合った。裸の左眼に一瞬驚いたような色が浮かび、次にそれは、戸惑いに変わった。

慌てて俺から目を逸らし、泳がせた視線を自分の手元付近に着地させると、ママは落ち着かない様子でグラスを磨くふりをし始めた。

「な、何のことよ……」

触れられたくない部分に触れられた時のように、わざと知らないふりをする。そのバレバレな態度を、俺は少し可愛いと思った。

「あの時の俺、どうかしてた。あんたがなんか、俺に似てるような気がしてさ……なんつーの?同族嫌悪ってヤツ?なんか見ててイラッとしちゃってさ……馬鹿だよな。あんたは俺じゃないのに」

俺は手元のグラスに目を落とした。そして、柑橘系の香りのするほんの少し苦い液体を、ほんの少しだけ口に含んだ。

「そ、そうよ…。あんたに似てるだなんて、冗談じゃないわ。一緒にしないで頂戴」

 狼狽えながら、すでに何度磨いたかわからないグラスを、ママは磨き続けた。

 俺はその手元を眺めながら答えた。

「だよな。ほんと、済まなかった」

「……何よ、今日はやけに素直じゃないの。やっぱり文字通り、しおらしい犬ね」

「……ああ、そうかもな」

 俺があっさり認めると、まるで張り合いがないとでも言うように肩をすくめた。

「……まったく、調子狂うわ」

 白い着物に身を包んだママは、ふと表情を崩した。それはまるで、百合の蕾がほころぶようだった。

 今まで直接、誰にも話したことのない自分の昔話を、気づいたら俺はママに話し始めていた。不思議と何の抵抗もなく、自然と言葉が出てきたから、今夜はこの流れに任せてみようと、酒が入っているからと自分の中で、言い訳しながら。

「俺さ、昔……色々あってさ、他者と関わることに、臆病になってた時期があったんだ。何も信じられないっていうか、何より、自分自身が信じられなかったんだろうな。色んな無茶もしたし、生きていることにも興味がなくてさ。ホント、今思うとメチャクチャだったよ」

グラスを磨く手を止めて、ママは俺の方に目を遣った。そして静かに、俺の言葉に耳を傾けた。

「自分が無力で、何もできなくて、だったら何もしない、誰とも関わりたくない、そんな風に考えてた。自分の殻に閉じこもって、ひたすら自分を守ってた。あの頃はそんなつもりなかったけど、今思うとそうだったんだろうな」

救えたはずの命に対する罪悪感が、俺を自分の中の闇に追いやり、自ら固く蓋をしていたあの頃を思い出す。

「色んなことが怖かったんだろうな。だから最初から他者を遠ざけてた。自分の中に入ってこられるのが嫌だったし、他者の中に入っていくのも面倒だった。でもさ、ある時気づいたんだよ。そうやって避けてる方が、よっぽど面倒だって。生きてる限り、俺たちは誰かと関わらなきゃならない。一人で生きていくことなんて、誰もできないんだ。嫌なことから一生逃げ続けるなんてこと、出来ないんだからさ」

「嫌なことから、逃げ続ける……」

 遠い目をして、ママが反芻した。俺はその横顔を眺めながら続けた。

「生きてりゃ誰だって色々あんだろ。程度の差はもちろんあるけどさ、誰だって辛い思いの一つや二つ経験してるはずだ。だが、みんなそれぞれの方法で、それを乗り越えていくんだよな。誰かに裏切られたり、裏切ったり、裏切ったつもりなんてなくても、濡れ衣着せられて傷ついたり……な」

「あんた……」
 
思いつめたような表情のママの瞳が揺れている。俺は知らず知らずのうちに、彼女の内面にダイブしていた。長くて寒いトンネルをくぐって、彼女の奥深いところにある何かに辿り着き、それと対峙しているような感覚を覚えた。

「俺には今、仲間がいる。昔の俺には想像もできないだろうけどさ、その仲間たちのおかげで俺、今生きていける」

むらいぬちゃんたちのことねと、柔らかな微笑みを浮かべママは言った。ああそうだ、頼りなさそうに見えるけど、あいつは立派にリーダーとして俺たちを導いてくれていると、俺は自慢した。

「一度は裏切られたと思った奴も、実は俺たちと思いは一緒なんだって気づいたんだ。仲間ってのは、どこに居たって仲間だし、お互いを思う気持ちの根っこの部分は変わらないんだって、今の俺はそう信じられる」

あいつらが、俺にそのことを気づかせてくれた。あいつらがいるから、俺はいま、ここに居る。

「そんな風に思えるお仲間がいるなんて、羨ましい・・・」

淋しげに目を伏せて、ママは呟いた。

俺は奴のことを思い浮かべつつ、こう返した。

「ママにだっているだろ、ママのことを気遣って、そばに居てくれる誰かが」

「・・・・・小十郎子ちゃん?」

「そうだ。あいつは・・・・・あいつとママにどんな事情があるのか、俺は知らない。だが、あいつがママのそばに居たいと願ってるのは事実だろう?きっとあいつ、ママのこと心配で仕方ないんだ」

そっと下唇を噛み、胸元に手を重ねる。でもママのその部分にいつもいるのは、小十郎子じゃない。

「居心地のいい狭い空間で、似たもの同士傷を舐めあって生きるのもいい。それが一番安心できるからな。でもそれはたぶんとても哀れで・・・・悲しい生き方だと俺は思う」

グラスに残った酒を一気に飲み干して、俺は続けた。

「・・・・ちゃんと向き合ってみたらどうだ? 俺、よくわかんねーけど、きっとあんたが今気にしてる人も、あんたを憎く思ってたわけじゃないと思うぜ。あんたがトラウマになってることの原因が何かは知らねーが、それもなんか事情があったんだろうよ、きっと」

「事情・・・・・?そんな・・・・事情があっても許されることじゃないわ」

ママの表情が強張る。だが俺はやめなかった。

「許される許されないはこの際問題じゃねぇ。あんたが相手を、『許せる』かどうかだ。あんたが許すことで、あんた自身が救われるんだ。昔世話になった牧師が言ってた。俺は今になって、その言葉の意味が理解できる」

胸の前で重ねた指が、小刻みに震えている。もしかしたら俺はまた、このひとを傷つけてしまったかも知れない。でも今回は悪意などない。俺は本心からこのひとに詫びたかったし、前を向いて欲しいと願っている。

「あのさ・・・・・・・楽になれよ。小十郎子だけがあんたの世界じゃねぇ。あんたは仏頂面してるより、笑ってたほうがよっぽどいい女だぜ・・・」

言ってから自分で照れちまった。俺は照れ隠しに空になったグラスをカウンターの上段にわざと音を立てて置いた。

「新しいの作ってくれよ。もうしおらしくねーからなんか別のやつな!」

そう言ってわざとそっぽを向いた。ママは静かに空のグラスを取り上げ、新たな一杯を作る準備を始めていた。

俺に背中を向けて、彼女は言う。

「・・・・・・そうね。ちょっと頑張ってみる。外の世界、覗いてみる。・・・・ありがと・・・」

「・・・・・・バーカ・・・・w」

思いがけず、俺は彼女の心の氷を溶かすことができたらしい。まだ完全ではないが、きっと少しずつ、ゆっくりと、ほぐれていくんだろう。そしてそのうち、ママの胸の底にいる誰かのことを、許せる日が来るといいな・・・。

ママが酒を作っている間、俺は壁にかけられた赤いマントを羽織ったあのひとの写真を眺めていた。あのひとが今ここにいたら、何て言うだろう。俺が偉そうに演説をぶってるのを見て、あのひとは笑うだろうか・・・。

「なぁ・・・・・」

「ん?」

「あのひと・・・・・・今頃どこにいるんだろうな」

俺の視線の先にあるものを見留めて、ため息混じりにママは言った。

「・・・・・・・さぁ。どこにいるのかしらね。でもきっとどこにいても、あのひとはきっと、あのひとのままに違いないわ」

「・・・・そうだな」

万物は絶えず流転するもの。一つ所に留まるのは、かえって不自然なの。じゅりいぬちゃん、あなたがたとえどこにいても、何をしていても、あなたがあなたであることに変わりはないのよ。

写真の彼女が静かに、そして力強く、俺に語りかけてくるような気がした。

ふとその時、オシロイバナの匂いが鼻を掠めた。だがきっとこの写真の赤いマントのせいで、夕暮れ時に見たあの香りを連想させたのだろうと思い、俺は苦笑いした。

「はい、出来たわ。これ新作なの。飲んでみて」

目の前に差し出されたグラスは、透き通った赤い液体で満たされていた。そしてそのてっぺんには、赤いオシロイバナが一輪、ひっそりと佇んでいた。

それを見て俺は心臓を掴まれたような気がした。気のせいじゃなかった。あのひとはきっとどこにいても、俺のそばにいてくれる。普段は気づかないが、ふとした瞬間に芳しい匂いを漂わせ、その存在をさり気なく報せてくれる。

じゅりいぬちゃん、あなたはあなたらしく、ね・・・・。

赤いオシロイバナが俺に、そう語りかけているようだった。

「これはあたしからのサービス。名前は、『夏の夜の夢』よ」

そう言って笑う伊達ママの姿に、一瞬NOBUママが重なって見えた、暑い夏の日の夜だった。