マスコミの「感動をありがとう!」が、実はとってもヤバい理由 | 渾沌から湧きあがるもの

 

 

マスコミの「感動をありがとう!」が、実はとってもヤバい理由

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180828-00000028-zdn_mkt-bus_all

さんより

 

「感動をありがとう!」の大合唱が日本中に溢れている。

一昨日の『24時間テレビ「愛は地球を救う」』(日本テレビ)で、みやぞんのトライアスロンや、聴覚障害のある子どもたちがチャレンジしたヲタ芸をご覧になって、そのひたむきな姿に心が動かされた方が多くいるのだ。

 

また、予選からたった1人のエースが881球を投げきった金足農業高校の雑草魂や、高校球児たちが織りなす感動ドラマに、勇気をもらったという方も山ほどいらっしゃることだろう。

少し前には、行方不明の2歳児を発見した78歳の尾畠春夫さんの生き様に思わず胸が震えたという方も多くいた。そういう意味では、この8月は「感動の夏」と言っても差し支えないような状況だったのだ。



そんなムードの中で非常に申し上げづらいのだが、この「感動をありがとう!」というトレンドはあまりよろしくない。というよりも、かなりヤバいとさえ感じている。

なんてことを口走ると、「日本人の素晴らしさにイチャモンをつけるなんて、こいつは反日サヨクに決まってる」と一部ネット民の方たちから執拗(しつよう)なリンチが始まってしまいそうなので、先に釈明をさせていただくと、障害者の皆さんや高校球児、そして尾畠さんらにケチをつける気は1ミリもない。

もちろん、彼らの姿に心を打たれた方たちを批判するような意図もない。

 

「感動」を必要以上にあおり過ぎているマスコミが、「ヤバい」と申し上げているのだ。

「感動をありがとう!」という不可思議な日本語からも分かるように、このトレンド下では、感動を人に与えることが何よりも優先されていく。

このような「感動至上主義」にとらわれたマスコミは、「終わりよければ全てよし」ではないが、「感動できれば全てよし」というカルチャーがまん延して、「大切だけと地味な話」や「重要だけど退屈な話」をサクサクとスキップしていく

つまり、美談で済まされない問題が山積みであるにもかかわらず、「感動をありがとう!」の大合唱のなか、じゃんじゃん「クサいものにフタ」へと突っ走るのだ

 

 

◆遅れているのは「意識」だけではない

 

『24時間テレビ』などは、その典型的なケースと言える。

ご存じのように、同番組は1978年から、「愛は地球を救う」のスロガーンを掲げ、障害のある方たちを感動的に取り上げてきた。ある時は、アイドル主演のドラマで、ある時はスポーツやパフォーマンスの挑戦で、「感動をありがとう!」という声を世につくりあげてきた。

では、40年にもわたって、障害者の美談をせっせっと世に触れ回ってきたこの番組によって、日本人の障害者に対する意識が何か変わったのかというと、残念ながらそうとは言い難い。

内閣府が行なった世論調査(2017年)では、「世の中には障害者に対して差別や偏見がある」と回答した人は83.9%に及ぶ。5年前は89.2%、10年前は82.9%ということを考えると、日本人の意識に大きな変化は見られない。

国際比較をすれば、もっと厳しい現実が浮かび上がる。「障害者の社会参加促進等に関する国際比較調査」(07年)によれば、障害のある人々の手助けやボランティアや交流活動の経験について、「したことはない」と回答した人の割合が、米国やドイツの場合2~3%程度なのに対して、日本の場合、31.3%にも及んでいたのだ。

遅れているのは「意識」だけではない。

つい最近、中央省庁が障害者雇用の水増しをしていることが明らかになったが、障害者年金など公的な現金給付に関しても、先進国の中で低い水準で、約4分の1の障害者が貧困に苦しんでいるという調査もある。

 

 

◆マスコミの「右へならえの大合唱」が問題
 

なぜこうなってしまうのか。

 

毎年、『24時間テレビ』の裏で、番組コンセプトを揶揄(やゆ)するような企画を放映することで知られる『バリバラ』(NHK Eテレ)が、今年掲げた「障害者はテレビを救う」というタイトルが問題の本質を突いている。

『24時間テレビ』に取り上げられる障害者は、あくまで視聴者の皆さんに感動を与えるテレビコンテンツのひとつとして重宝されているに過ぎない。そのため、その感動にフォーカスが当たれば当たるほど、本来メディアが取り上げなくてはいけないヘビーなテーマが、おざなりになってしまう悪循環が生まれているのだ。

この構造は、まんま「甲子園」にも当てはまる。

前々回のコラムでも述べたが、高校野球は長きにわたって先送りされてきた問題がわんさかあるからだ。

熱中症でバタバタと子どもたちが倒れる危険性はもちろんのこと、定期的に死者を出す根性論丸出しの前近代的な“シゴキ”や、選手の疲労を無視した興行優先の過密スケジュール、さらには「1人のエースが881球投げ切るのが高校生らしいのか」という問題など言い出したらキリがない。

だが、そのような問題は毎年ちょこっと話題になるだけで、すぐにうやむやにされる。「金足農、感動をありがとう!」みたいなマスコミの大合唱によって、それらの指摘が見事にかき消されてしまうのだ。

こういう話をすると、決まって「東北の人たちも喜んで、日本中も感動して、みんなハッピーなのに水を差すな」「高校球児たちが強制じゃなく自主的にやっていることに外野がケチをつけるな」というお叱りを頂戴するのだが、先ほども申し上げたように、筆者は甲子園や高校球児にケチをつけているわけではない。

「世に感動を与えてるものは無条件に正しい」というマスコミの「右へならえの大合唱」にケチをつけているのだ。

 

 

◆読者に感動を伝えることが目的に

 

なぜケチをつけるのかというと、危険だからだ。

メディアの世論誘導など負の側面を分析してきた立場から言わせていただくと、感動至上主義に傾倒し過ぎたメディアは、感動を伝えることこそが自分たちの使命だという錯覚に陥って、批評や分析の視点がごそっと抜けていく

 

その症状がさらに悪化していくと、思考停止に陥って、最終的には人がバタバタ死んでも、感動できれ問題ナッシングみたいなモラルハザードが引き起こされる。

そんなのはお前の妄想だと思うかもしれないが、ちゃんと歴史が証明している。

 

例えば、「爆弾三勇士」が分かりやすい。

ご存じの方も多いかもしれないが、1932年の上海事変時、敵陣の鉄条網を爆破するため、点火した破壊筒を持って突撃・自爆した3人の陸軍兵士のことである。後の「神風特攻」にもつながるこの愛国美談が報道されると、日本中は「感動をありがとう!」の大合唱に包まれた。

そのフィーバーぶりはすさまじく、子どもたちの間には「爆弾三勇士ごっこ」まで流行したという。

当然、「いくら作戦のためとはいえ、3人の命を投げ出さなくてはいけないの?」「破壊筒を置いてなぜ帰ってこれなかったの?」と感じる人もいたが、その声は「感動をありがとう!」の大合唱にかき消された。

というと、当時のマスコミは軍の方針に無理に従わされたていた、みたいにすぐに被害者ぶる人たちがいるが、それは大きな誤りである。

 

確かに、彼らを戦意高揚に利用したのは軍部だが、競い合うように映画、新聞、童謡、書籍化などをしていたのは、他でもないマスコミなのだ。

朝日新聞社が戦時報道を振り返った『新聞と戦争』を読むと、言論機関として「窒息」したのは、日中戦争が深まり、38年に国家総動員法ができたからだと記されている。つまり、1932年の「爆弾三勇士ブーム」は、軍の強制うんぬんではなく、「甲子園」や『24時間テレビ』と同様に、「感動コンテンツ」を欲するマスコミが自らつくりあげたものなのだ。

彼らが度を超えた感動至上主義に陥っていたのは、「爆弾三勇士」から1年以上経過した際の報道を見れば分かる。ドイツの画家が日本海軍で進められていた「人間魚雷」の絵を書いた。

「四百名の勇士を募集したところ、志願者は五千名に達した」なんて但書が付けられていたが、海軍はデマだと一蹴。ドイツ人が「爆弾三勇士」の熱狂を見て、勝手に空想したのだと。だが、これはビミョーな話である。海軍はこの10年後に「回天」という人間魚雷を開発するが、その構想が実はこの時点から既にあったという話もあるからだ。

 

 

◆命を捧げた人に「感動をありがとう!」

 

いずれにせよ、ここで注目すべきは、当時の新聞が、このドイツ発の「人間魚雷」ニュースを、海軍よりも肯定的に報道した点だ。

「日本恐怖病 こんどの戦争には 人間魚雷だ ドイツのが画家が描いた幻影」

(読売新聞 1933年12月23日)

むしろ、日本国民を勇気と感動を与え、敵に恐怖を与える自爆を誇らしいと言わんばかりなのだ。

これが筆者の思い込みではないことは、「爆弾三勇士」以降も、第二の軍神を探せと言わんばかりに、以下のような自爆美談に紙面が多く割かれていることがよく示している。

「死して果たす戦線の友情 “仇は討ったぞ”凄絶な最期 鬼神も泣く阿修羅戦」

(読売新聞 1937年11月8日)

「我子自爆のあの機 お国に返納仕り候 後宮大将泣かせた神鷲の母」

(読売新聞 1944年2月18日)
 

 

なんとなく、平成日本の「甲子園美談」の記事と雰囲気が似ていることにお気付きだろうか。

 

戦時中の日本は何かと暗くて、軍に仕方なく戦争に付き合わされていたみたいな社会をイメージする方も多いかもしれないが、新聞紙面に限って言えばそんなことはない。

家が燃えても増産を始めた女生徒や、母危篤の知らせを聞いても防護団の持ち場を離れないなんて美談が毎日のように掲載されていた。

誤解を恐れずに言ってしまうと、「甲子園」や『24時間テレビ』を毎日やっている状況だったのだ。

国のために命を捧げる人たちの美談に、「感動をありがとう!」の大合唱が溢れかえる。

そのムードにケチをつける人間は「非国民」として、近所の人間から棍棒で追いかけ回された。

そんな「感動至上主義」に陥っていたのが当時の日本だった。

先ほどの、ドイツ人画家が描いた人間魚雷について、海軍省の武富邦鼎(たけとみ・くにかね)大佐に問うと、腹を抱えて笑って、「わが海軍としては百中百まで必ず死ぬといふやうな計算は平時人道上から出来ない」と語った。だが、その後に「爆弾三勇士ぐらいの仕事はわが水兵ならやるよ、といふことだけは記憶して置いて頂きたいね」と付け加えている。

 

 

◆戦争美談を報じ過ぎて、思考が停止

 

つまり、1933年の段階では、海軍大佐でさえ、「人間爆弾」は人道的に問題がある戦術だと明言しているのだ。にもかかわらず、同時代のマスコミ人たちは「人間爆弾」を美談として大絶賛して、軍に命じられるまでもなく映画、ラジオ、書籍化へと突っ走っている。

なぜマスコミ人たちのモラルが、軍人を上回る勢いで壊れてしまったのかというと、全ては「感動至上主」のせいだ。

もっと感動を、もっと美談を、と追い求めていくことは、何やら素晴らしく正しいことをやっているような錯覚に陥るが、実は求めているのは「感動」だけなので、思考停止していく。

自分の頭で考えないので、次第にモラルが麻痺(まひ)して、世の中が求める「感動」を機械的に触れ回る作業しかしなくなるのだ。

戦時中、日本のマスコミが狂ったのは軍部のせいだと言われている。

その側面を否定するつもりはないが、何から何まで軍のせいにする被害者根性が気にくわない。

当時の異常な「感動ありがとう!」の紙面を見れば、自分たちで勝手に狂った部分も多々あるのは明らかだ。

 

そういう歴史に学べば、東京五輪を前にやたらと「感動」を触れ回るマスコミが狂気に走るのは容易に想像できる。

運動部のシゴキ、ボランティア、ブラック企業など理不尽な仕打ちで殺された若者を「爆弾三勇士」のよう

に、国のために命を捧げた英雄として持ち上げるのは時間の問題ではないか。

 

 

 

 

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社会が障害者を「感動ポルノ」にしてしまう風潮を批判します

https://ameblo.jp/awakinginheaven/entry-12194585233.html

 

ステラ・ヤング : 私は皆さんの感動の対象ではありません、どうぞよろしく
TED TALKS


これが私の最初の気づきでした
この子は障害者を感動の対象としか 見たことがないんだ と
この子にとって― もちろん 彼のせいでもなく 多くの人が そんな風に考えています
大多数の人が 障害者を教師や 医者やネイリストとは 見ないものです
障害者は人として扱ってもらえません 感動を与えるための存在です
事実 私はこの会場に座って― こんな感じで車椅子に乗っていたら 皆さんが私に
それとなく期待しているのは 「感動」ですよね? (笑) そうなんです


ご来場の皆さま 残念ですが 皆さんを非常に がっかりさせてしまいます
私は「感動」させに来たんじゃ ありません
私がここに来たのは 私たちが障害に関して 騙されていたとお伝えするためです
そう 私たちは嘘を教え込まれています
障害は完璧に悪いことで 疑いの余地なしという嘘です
障害は悪いこと だから 障害を持って生活するのは 立派な人だということになります
障害は悪いことではないんです だから 立派ということもありません

 

 

 

 

 

 

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トランプで騒ぎ安倍に騒がない連中がわんさかいる情けない国、日本お憑かれ・・・

 

この昨日の記事にも書いたが、マスゴミの煽りというのは思考停止した無意識の人間にはバンバン入り込んでくる・・・ が多くの場合、意識の変化をもたらすことは少なく、実際は一時的な流行りとしての空虚なものばかり。

 

 

連日のように

 

 

「東京五輪が!」

 

「安倍三選だ!」

 

「サマータイム導入だ」

 

「五輪ボランティは素晴らしい」

 

「改憲だ!」

 

「安倍さんしかいない!」

 

とテレビで流れ出したら・・・

 

・・・いや、すでに、日本会議界隈ではこういう「連呼」してるわな・・・汗

 

 

 

・・・日本、終わりだな・・・ チーン