コロナ禍の数年間、外食を極力控えていたawakinです。

 

その間外食はこれを食べなかったら生きている甲斐がない横川『得』のお好み焼きと、両親といっしょに食べた想い出がある舟入南『シャンボール』のタンシチューくらいで、たいていは家内殿の手弁当かコンビニ弁当で済ませておりました。

 

それが経済を優先する国策の下、ワクチン接種も患者数もまったく報道されなくなり、街歩きではマスクをしていない人のほうが多くなった最近は、これまで我慢してきた反動でしょうか、クルマの中で弁当を頬張るより出かけた土地土地にあるお店を食べ歩くことが多くなりました。

 

と言っても探し方はぶっつけ本番、マップで食べたいものを検索し最寄りのお店に入るだけですが、ときには『失敗した!』と舌打ちするようなこともあります。

 

先日も山陰をドライブ中蕎麦屋に入ると、天ざるがメニューにないので聞いてみると『出来ます。』がアルバイトさんの答え。値段がとてもお安いので心配でしたが、やはりというか、出てきたのはペラペラのスーパーで売っている「どん兵衛」のような天婦羅でした。しかも冷たくて、とてもではありませんがお金を払って食べるような代物ではありませんでした。

 

もちろん広島に帰ってすぐ、口直しにと黒瀬・源五郎へ直行したのは言うまでもありません。

 

東広島市黒瀬の源五郎

 

現役の頃、麺好きな先輩に教えてもらって来るようになったお店です。

 

蕎麦が美味しいのはもちろんのこと、天婦羅が絶品で、元々美味しいと評判のお店でしたが、数年前にミシュランガイドに掲載されたことでさらに人気に拍車がかかり、平日でもお昼時間だと駐車場に車が停められないことが多いので、awakinは時間をずらして訪問するようにしています。

 

黒瀬・源五郎の天ザル 1,595円

 

やはり天婦羅は熱熱がいいですね。ただこちらの天ザルを標準と考え、同じものがどこでも出てくると思っていると失敗するということです。

 

冷たい天婦羅は掛け蕎麦に入れて食べるもの、でもこれはどんなものが出てくるかよく訊かなかったawakinの失敗で、山陰のお店のお値段は源五郎の半額以下でしたから値段相応ということ、一瞬でも悪く思ってしまったことを反省しているところです。

梅雨が明けたとたんに炎暑となり、『こう暑うちゃ~どうなろ~にゃ~。』とばかり、クーラーをつけっぱなしにして自宅で蟄居しています。

 

おかげでこれまでやろうとしてなかなか出来なかったこと、例えば従妹と電話で話をしているときに思い立った、昔一緒に遊んでいるところを親に撮ってもらった写真をデジタル化して、焼き増しするといった作業に手をつけることができました。

 

awakin家に残るアルバムの全てを探し切ることは出来なかったものの、副産物として忘れていた懐かしい写真がたくさん出てきました。

 

今日はその中の一枚を載せてみたいと思います。

 

紙屋町でawakin親子を写したスナップ

 

左端に広電の電車と電停が見えていて、そのむこうが紙屋町交差点、電車と被っている白っぽい建物は興銀でしょうか。

 

真ん中に立っているのは鬼籍に入って24年になる母、左が弟で右がawakinです。

 

awakinは幼稚園に持って行っていた記憶のあるカバンを肩に掛けているので、この写真が撮られたのはawakinの幼稚園時代、服装は夏服ですから、おそらく昭和38年夏ごろだったのではないしょうか。

 

旧いアルバムに張ってあった写真をアイホンで撮影し、画像編集ソフトで森山大道さんの『ボケ・ブレ・アレ』風にしようとレタッチしてみましたが、巨匠の作品のような風合いを出すのに、やっつけ仕事でうまくいくはずがありません。

 

本当はもう少しうまいことレタッチしてみたいと思っているのですが…。

気づけば7月がもう後半に入っていて、小学生の孫は夏休みに入っています。

 

こどもの頃、夏休みというと早起きしてラジオ体操に行っていたのが懐かしいですが、体操が終わっても真っすぐ家に帰ることはほとんどなく、近所の友達とひと遊びしてから帰宅しておりました。

 

遊び場に早変わりした早朝の神社は、アブラゼミとニイニイゼミの大合唱で、蝉しぐれのシャワーの中、こども達はそうとも知らず遊びに夢中でありました。

 

その頃シャンシャンと大きな声で鳴くクマゼミはまだ珍しく、鳴き声を聞きつけると『クマゼミがおる!』とか言って、網を手に駆けていったものですが、いつのまにか広島の夏はクマゼミの天下となり、アブラゼミは少数派、ニイニイゼミは影も形も見せなくなってしまいました。

 

そのニイニイゼミ、もうどんな鳴き声か忘れていましたが、先日のこと、北広島町をドライブ中木陰にクルマを停め、ほんの少しの休息していたときに、あの耳に涼しい高音の鳴き声がすぐ近くから聞こえてきたのです。

 

 

見事な擬態で、クルマを降りて探してもすぐにはわからなかったニイニイゼミ。

 

助手席側のドアのすぐそば、50㎝くらいのところで鳴いているのですから、耳のよい家内殿がうるさく感じるのは当然でしょうか。

 

ところが高齢者で、難聴が進んでいるawakinにはそれほどうるさく感じないというか、角度によっては鳴いている?と訝しく思えるほど聞こえないのです。

 

森林浴をしていて、家内殿に聞こえる鳥の鳴き声が自分には聞こえないということはこれまで何度もありましたが、あれほど近くて耳を突んざくくらいの鳴き声が聞えたり聞えなかったりするとは…。

 

難聴は認知症の一因になるそうですから、気をつけないといけないと気づかされた瞬間でありました。

こどもの頃に一度雷の匂いを嗅いだことがあります。

 

55年くらい前の事で、当時広島では固定電話がついている家庭はまだ珍しく、子供が遊ぶそのへんの道は、穴ぼこだらけで雨が降ると水たまりだらけ、舗装されているのはバス通りだけという、高度経済成長期の真っただ中でありました。

 

小学生だったawakinは、学校から帰ると家の中にいてもすることがなく、毎日のように外に出て級友たちと遊んでおりましたが、その日はみんなが集まって太田川放水路の河川敷でソフトボールをしておりました。

 

すると黒い雲が流れて来て、あたりが暗くなってきたと思う間もなく、ゴロゴロと遠くから雷鳴が聞こえてきて、みんなの髪の毛がふわーっと逆立ったのです。それにくわえて生臭いようなカルキ臭のような何とも言えない臭いが漂ってきました。小さな子供でもみんな身の危険を感じ、『逃げ~!』、『ウォーッ!』と声にならない声を上げながら自宅に逃げ帰ったのは言うまでもありません。

 

このときの恐怖の体験から歳をとっても雷が怖ろしいawakinは、注意報が出ていると雷が鳴りそうなところへ足が向きません。

 

梅雨明け間近のこの3日は、県内でも発雷確率が高い北部の山方面には行く気が起きず、外出してもスマホだけ手にして海沿いでまったりと過ごしてまいりました。

 

なので今日はちょっと前に撮影したブッポウソウを度々で恐縮ですが、獲物を見つけてから狩りに移るシーンを載せてみたいと思います。

 

 

 


獲物はブンブン(カナブン)でしょうか。

 

一度捕り逃した虫を身を翻して捕まえました。

 

トリッキーな動きが魅力的ですが、秒間10枚+手持ちで撮っているのでこれが限界、もし来年チャンスに再び巡り合えたら、今度は秒間20枚&秒間30枚で撮ってみて、画像がどのくらい違うものか試してみたいところです。

きょうも同じような予報が出ていますが、昨日は発雷確率が高く急な雷雨に注意が必要だと天気予報が脅すので、クルマから離れて山の中を歩き回る探鳥はリスクがあるので控え、自宅で大人しく過ごしておりました。

 

暑い中、クーラーを効かせた部屋の中ですることと言えば、読書か録り(撮り)溜めているビデオや写真の整理ですが、最近よく眺めているのは、『鯉の領域』や『東京タイムスリップ』シリーズなど、旧いスナップ写真中心の写真集です。

 

大いに触発され、過去のアーカイブの中から街頭や家族で撮った写真を抜き出しています。awakinが写真を撮り始めてわずか十数年ですが、スナップと花から始まって、風景、電車、飛行機、鳥と興味が移るに従い、いろんな被写体にレンズを向けてきました。

 

それら被写体の中で、後から眺めて断然面白いのはやはりスナップでしょうか。

昔撮ったスナップ写真からは無限の変化が感じられ、何より懐かしいという日本人独特?の感情が呼び覚まされるのです。

 

きょうは暇にしていたきのう観たビデオの中にあった広島市の俯瞰写真と、50年前の写真集に載っている俯瞰写真を比較してみたいと思います。

 

写真集『HIROSHIMA』、1970年開催の大阪万博にやって来る外国人観光客向けに広島をアピールする目的で作られたと思われる写真集に掲載されている写真です。

 

awakinが通った大芝小、中広中、崇徳高校のすべてが写っています。この頃は小学生でしたが、夏休みには早起きして右下に黒々と見えている新庄神社の森の下でラジオ体操をしていました。

 

こちらはきのう偶々観ていたビデオ内にあったNHKの番組『さわやか自然百景・広島 太田川下流』(2023年9月放映?)の一場面です。角度は違いますが、上記の50年前の俯瞰写真と同じ中洲が、これを復興と言ってよいのかどうか、ビルだらけになって写っています。

 

50年前の三篠は、ほとんどが1~2階建ての住宅ばかり、新庄神社の夫婦楠が周囲を圧して一番背か高かったのが、今では高層のマンションが立ち並び、神社も楠もどこにあるかわからなくなってしまいました。

 

50年の時間が経過する間に新幹線が通り、高速道路が出来て、アジア大会のための新交通(アストラムライン)も敷かれました。道路事情など交通の便がよくなってからは、周辺の山々が削られて団地が造られ、つぎつぎと人が移り住んで人口は100万人を超え、広島は政令都市になりました。

 

その代わりに失くしたものは何でしょう。

 

awakinがこどもの頃、近所にたくさん住んでいた明治生まれの人たち、おばあさんはお歯黒を入れていて笑うと黒い歯が見えて気味が悪かったですが、盥(たらい)に洗濯板を立ててゴシゴシと洗濯している光景をじっと眺めていたものです。

 

彼らはもうみんな鬼籍に入ってしまい、記憶の中の風景になってしまいました。

 

そんな朧になりつつある記憶の中の風景を、ときどき、少しずつですが掘り起こしてブログ記事に残していきたいと思うところです。