『まだ言うちゃあいけんいうて言われとるんですが~、うち9月末で店閉めることになりまして~。』

 

『嘘じゃろ!、やめてーや。』

 

家内殿が乗っている車のタイヤがチビたので、交換しようと見積もりに行った自宅から歩いて2分のところにあるガソリンスタンドで先月末に交わした会話です。

 

そして昨日、頼んでいたタイヤが入ったとの連絡があったので再び訪れてみると…。

 

閉店を知らせる貼り紙が貼ってありました。

 

町内会唯一のGSで、いつできたのか覚えてないのも当然、貼り紙には昭和37年営業開始、業歴62年と書いてあり、そのときawakinはわずか3歳でありました。

 

想い出もいっぱいあります。

 

小学生の低学年、たぶん2年生のときには、校外学習で仕事内容を聞き取りにこのあたりを歩いた記憶があります。GSがある場所は新国道(R54)が開通する前は路線バスの終点だったところで、隣には魚屋、並んで八百屋、お好み焼き屋、総菜屋、パーマ屋、魚屋、肉屋があり、ちょっとした商店街の風情を呈していたのです。

 

中でもカクタニと呼んでいたお好み焼き屋では、夏休みのお昼にアポロ11号の月面着陸の様子を観ながらお好み焼きを食べた記憶があり、野菜入りが一枚60円でした。

 

小学生のころから見慣れた風景、道路の反対側にあった算盤塾に通っていたので、毎週末ここを歩いていました。

 

栄枯盛衰は世の常で仕方のない事かもしれません。

 

こちらのGSも設備の老朽化で更新時期が迫っており、そうすると採算がとれないので閉店することに決めたそうですが、同じような理由で店を閉じたGSは近辺にたくさんあります。

 

平成の初め頃の状況を思い起こしてみると、中学校まで通った約1.6㎞の道すがらGSは全部で11ありました。それが今は4つでもうすぐ3つになるのです。

 

正直困ったことになったもので、これまで冬用タイヤなど、交換を頼むと歩いて家に帰って夕方取りに行っていたのが出来なくなります。法人取引もあり、引き続き利用しようとすると十日市まで行かないといけません。

 

不自由この上ないですが、何とかしなくては…。

 

安かろう悪かろうは我慢できないので、よくよく吟味して新たに常連となる店を探さないといけませんが、ちょっと大儀だなと思うのが本当のところです。

『えーっ!わからんかったん??』

 

きのう夕刻の地震で広島市内は深度3だったようですが、揺れをまったく感じなかったawakinは、隣に住んでいる小2の孫に驚かれてしまいました。

 

孫は金魚を入れている水槽の水が揺れたので地震に気がついたようですが、こちらは座ってテレビを観ていたのに何も気づかず、そう言えば先の東日本大震災のときも、職場で数人が『揺れよるよ!』と叫んだのに、『何言いよるん?』と軽く流すだけだったのを思い出しました。

 

500㎞ある南海トラフが連動して崩れたら、再び巨大津波が日本列島に襲いかかることになるでしょう。地震の2時間後、波高4mに達した津波が広島湾に到達したとき何が起こるか想像だに出来ませんが、最悪1階部分が水没することを想定して貴重な写真や書籍、重要書類などを2階天井裏の書庫へ移しておいたほうが良いでしょうか。

 

そんなことをぼんやり考えている今日も日中は危険な暑さです。

 

五感を研ぎ澄ませてちょっとしたハンター気分が楽しめる探鳥ですが、当分はお休みするつもりですから、今日はこの夏梅雨入り前後に出逢った鳥さん、すでに思いでの一部ですが写真を貼ってみようと思います。

 

サンコウチョウ


コウノトリ

クロハラアジサシ

コサメビタキ


サシバ

ブッポウソウ

コアジサシ

コシアカツバメ

 

夏鳥に関しては、営巣中の個体あるいは虫咥えの写真、あるいは巣立ち雛への給餌の写真はなるべく撮らないよう心がけて撮影に臨んでいます。

 

立秋が過ぎ暦の上ではもう秋だそうですが、広島は相変わらずで、朝は蝉しぐれにたたき起こされ、日中は外出が憚られる「熱中症アラート」の毎日です。

 

ただ、早朝北向きの窓からほんの少し吹き込む風に涼しさを感じ、わずかですが秋の気配を感じているところです。

 

そんなふうに早朝に秋を一瞬感じたきのうは、10日ぶりにカメラを持ち、やはり10日ぶりにawakin号を駆って、せら夢公園までサギソウとチョウトンボに逢いに行ってまいりました。(本当はサギソウに停まるハッチョウトンボを期待していたのですが、暑くてハッチョウトンボは生きられないのか、1頭も見つけることは出来ませんでした。)

 

幸水梨にはちょっと早い世羅高原では日射は強くてもさすがに高原上です。沿海の広島市内と違い、吹く風がとても涼しくて負担感がありません。

 

日陰に設けられたベンチに腰掛けていると気持ちがよくなり、目を瞑るとそのまま寝入ってしまうところでありました。

きのうの原爆忌、awakinは家族を連れ5年ぶりに平和公園を訪ね、慰霊碑に参拝してまいりました。

 

新型コロナの非常事態宣言が出てからというもの、人ごみを避けて市中心部を歩くことはもちろん、大型商業施設での買物や外食すら控えてきましたが、今年に入ってからはマスク必須ですが、そういった繁華なところへも出かけるようになりました。

 

原爆忌の慰霊碑参拝は、例年長い行列ができて他人との距離が近いうえ、長時間立って待つことになるので、この5年は密だと言って避けて来たのですが、野外ですし、昨日の夕刻には比較的涼しい北風が吹いていたので、久しぶりに参らせてもらうことにしたのです。

 

平和公園の噴水、ぼうっと眺めていると、親に連れられて来ていた小さいころの情景が胸に去来して懐かしさを覚える噴水です。

 

被爆アオギリ、東白島からの移植されたものですが、161本ある被爆樹木の中でもよく知られている木です。隣に出来たサミット記念館からの照り返しで枯れそうになっているとの報道がありましたが、暗くてよくわかりませんでした。

 

5年ぶりの原爆慰霊碑、願うだけでは平和は訪れないと、こども達にも言われておりますが、この場所の地下には十万の犠牲者の名前が書かれた名簿が保管されています。awakinにとっては出雲の黄泉比良坂と同じ慰霊の場所、亡父、亡母と暫しの間会話ができる場所なのです。

 

 

聞けばこちらも5年ぶりだという灯篭流し

 

12年前の灯篭流しを撮影した写真を先日載せましたが、そのときは相生橋のライトアップが白くて、眩しくて邪魔に思えたのが、今年は照明が消えていたのが印象に残ります。

 

『お腹空いた~。』と娘が言い、時計を見ると夜10時前です。

 

火曜日のこの時間となると適当な店がないものですが、娘が『ロイホがいい。』と言うので自宅近くのロイヤルホストに足を向けました。

 

ファミレスに入るのは、この前入ったのがいつだったか記憶に出て来ません。思い出すのに頭を絞ってやっとのこと、それが約20年前だったと気づいてびっくりです。

 

しかしこのハンバーグ、これが結構イケるのです。家族みんなが頼むので、awakinも負けずに食後にアイスクリームを食べて満足しました。

 

これまでファミレスに足を向けなかったのは、特に理由はありませんが、やはり先入観で何でも決めつけてはいけないことを、改めて気づかされたところです。

 

昭和30年代前半にこの世に生を受けたawakinですが、最寄りの駅がある横川へは小さいころからよく家族で出かけておりました。

 

その頃の横川には美味しいすき焼を食べさせてくれる「ますゐ」があって、肉好きな父親が休みの日に連れて行ってくれたのです。

 

横川までいつものんびりおしゃべりしながら歩いて行っておりましたが、暑い時期などは路線バスやタクシーに乗りました。料金は不思議と今でも憶えていて、バス代が子供5円、大人10円でタクシーの初乗りが80円だったでしょうか。

 

昔撮られた写真を見ると、山陽本線は平地に線路が敷かれ、2本あるバス通りにはそれぞれ踏切がありました。旧道筋には跨線橋が掛けられていたようですが、太田川放水路が出来、その堤防を越えるために高さを合わせた築堤が造られました。線路はその築堤上に敷かれたので、汽車は見上げる高さの場所を走るようになりました。

 

物心がついたのは、すでに築堤が造られたあとでしたが、周りに何もなかったので道を歩いていると走って来る蒸気機関車がよく見え、長大な貨車の最後尾にちっちゃい車掌車がくっついていたのが思い出されます。

 

きょうはそんな想い出のある横川駅の北口の街並みの変わりようを2枚の写真で比較し、記憶を辿ってみたいと思うのです。

 

横川駅北口、築堤下の飲食店街(撮影日:2012.2.17)

 

12年前、散歩中に可部線の上り電車(国鉄105系・広島色)が入線してきたので慌てて撮った写真です。

当時は横川~広島間に新白島駅(2015.3開業)がなかったので、朝方には白島にある安田女子学園の幼稚園児を乗せる園バスが大挙して停まっていたものです。

 


散髪帰りに通りがかり、スマホで瞬撮。(撮影日:2024.7.23)

 

わずか12年ですが、この変わりようはどうでしょう。
 

築堤やガード下にあった44店舗は、耐震工事のため立ち退きを強要され、4年程前までに総入れ替えになってしまいました。

新しい店舗はきれいではあるものの、店構えにどれも特徴がなく画一的でつまらないと感じるのです。

 

色がバラバラのテント、形も種々雑多な看板の商店街の旧景は、12年前にはいろんな色のいろんな形の旧型(国鉄型)電車が走っていたJR車両と同じように、二度と見ることが出来ない風景ですが、懐かしいと感じてしまうのはやはり年々歳をとって爺になったということでしょうか。