感謝「農耕と園芸」-技術伝えて98年- | 宇田 明の『もう少しだけ言います』

宇田 明の『もう少しだけ言います』

宇田 明が『ウダウダ言います』、『まだまだ言います』に引き続き、花産業のお役に立つ情報を『もう少しだけ』発信します。

誠文堂新光社「農耕と園芸」が2024年夏号で休刊。
前身の「実際園芸」から98年の歴史に幕。
数年前に月間から季刊にかわったことで、休刊は予想されたこと。
ついにその日が来たようです。

新聞、雑誌、単行本・・、紙媒体は苦戦。
農耕と園芸、休刊という名の終焉。
最大の要因は、読者の中核であった花農家が減少したことでしょう。
特に新たに花づくりをはじめる人が減った。
経験豊富なベテラン農家ばかり。
栽培技術、新しい花、新品種・・、雑誌から学ぶべきことがなくなった(と考える農家ばかり)。



画像 農耕と園芸の休刊を伝える日本農業新聞(2024年6月17日)

 

花農家が減ると、真の読者である都道府県の農業改良普及員、研究員も減少。
同時に、農耕と園芸、現代農業、家の光が常備されている農協の支所、農業改良普及センターなどが廃止や統合で減少。
農村の図書館にも置かなくなった。
その結果、農耕と園芸を必要とするマーケットが消失。

農耕と園芸の花産業への貢献はきわめて大きく、決して忘れてはなりません。
花産業の誕生、成長、衰退とともに歩んだ農耕と園芸の98年。
もう少しで100年だったのに。

今回のお題は、農耕と園芸の98年に感謝。



画像 「農耕と園芸」最終号 2024年夏号(第79巻2号 通巻1118号)

 

1970年、
わたしは花、野菜、果樹、病理、昆虫の研究員がそれぞれ1名の農業試験場の小さな分場に赴任しました。
研究員は全員、新卒と2年目の22歳と23歳の若すぎる職場。
ベテランは40歳代の分場長と主任だけ。
そんな経験不足の新人が、いきなり県下最大の園芸産地の技術課題解決を担当。
パソコンもネットもない時代。
電卓はまだ普及しておらず、算盤パチパチ。
コピーは湿式の青焼き、1枚ずつ手動。
分場の電話機にはダイヤルがなく、ガリガリ手回しで交換手を呼びだし、相手番号を伝える。

技術情報で頼ったのが「農耕と園芸」。
予算が乏しい分場、職場に雑誌、専門書は皆無。
個人で定期購読。
「農耕と園芸」から、栽培技術、環境調節、あたらしい花など多くを学びました。

雨が降ると、「農耕と園芸」を握りしめた生産者が、掲載されている新しい花をつくりたいと相談に来られました。
温室経営ですから、雨が降っても作業できるのに、雨降りには水やり、温室の開閉作業が不要だし、生育もストップするので、ほっとするのが農家の本能。
雨の日には農家が集まり、「農耕と園芸」を前に、情報交換会。
いまは、晴れだろうが雨だろうが、農業改良普及センターや農業試験場を訪れる生産者は多くないようです。
訪問しても、聞くことも見るものもないからでしょうか。
気軽に行くところではなくなったようです。

「農耕と園芸」からは学んだだけではありません。
少し経験を積むと、原稿の依頼が来るようになりました。
一人前の研究員になったような気がしました。
普及員や研究員が、新技術を雑誌に発表することを、生産者が嫌う、あるいは他府県への発表を禁じる産地がありました。
わたしの地元産地は、「農耕と園芸」に記事がのると、大変喜んでくれました。
記事が載った「農耕と園芸」が発売されると、農家や農協職員に「載ってたね」、「読んだよ」、「よかったね」と声をかけていただけました。
1970年代半ばから執筆させていただきましたが、転居をくり返していたので、初期の執筆号は手元にありません。

 

幸いなことに、あとで登場する園芸探偵 松山誠さんが、戦前の「実際園芸」、戦後の「農耕と園芸」の目次一覧を作成していただいています。

松山さんに感謝。

 

それを見ると、わたしの「農耕と園芸」デビューは1973(昭和48)年9月号

特集 施設内の環境と調整

カーネーションの首曲がりを防ぐ環境と調節

 

カーネーションの当時の最大品種コーラルには低温期の花首が90度曲がる首曲がりが発生していました。

その防止と対策が、わたしが赴任する前から決まっていた研究テーマ。

特集の総論は、千葉大学の蔬菜の伊東正先生

バラのブラインド対策を林勇さんが執筆。

プロ野球のルーキーのように、テレビで見ていた大選手とおなじグランドでプレーできることに感激でした。
それから最後に執筆した2010年9月号まで、何回も書かせていただきました。

そんなお世話になった「農耕と園芸」ですが、定期購読をやめてから長い年月がたちました。
紙質がよくなり、カラー写真になり、ビジュアルになるのに反比例して読みたい記事が減っていったことが、購読をやめた理由です。
それは編集部の責任ではなく、現場に直接的に役立つ研究成果が減ったからでしょう。

そんな「農耕と園芸」ですが、休刊するということを知り、最終号を買いました。
すでに、「農耕と園芸」をおいているような本屋は地元にありません。
あたり前のように送料無料のアマゾンに注文、翌々日には手にすることができました。

こちらは思いれが強いのですが、編集はあっさりしたもの。
すこし拍子抜け。
最後のページに休刊のお知らせ
昔お世話になった御園さんが編集長。



画像 農耕と園芸最終号

    最終ページに休刊のお知らせ

 

その前のページにある、農耕と園芸第一巻六号(昭和21年7月号)の編集主幹石井勇義の巻頭のことばが熱い。


「科学技術受け入れの素地を」
農業を基本とする日本再建にあたり、農家への科学技術浸透の声が高いが、真の生産の上昇は、篤農技術と呼応して農業科学の実践に俟つ外はない。

(以下青字は引用)

当時の誌名「農耕と園芸」は牧野富太郎博士の揮毫であったらしい。



画像 農耕と園芸最終号に掲載された1946(昭和21)年7月号巻頭の石井勇義のことば

    目次を見ると、戦後まもなくだけあって、花の記事はない

 

農耕と園芸98年の歴史を語るのは、わたしではなく園芸探偵 松山誠氏がふさわしい。
松山さんは、
戦前の「実際園芸」、
戦後に「農耕と園芸」として復刊したすべての号に目を通し、総目次を作成された。
松山さんの情熱があって、「実際園芸」、「農耕と園芸」98年、通巻1,118号に、だれがなにを書いたかを、後世に伝えることができます。



画像 誠文堂新光社のフリーペーパー、松山誠著「園芸探偵」No.1 2016年

    歴史的価値が高い資料が無料配布

 

誠文堂新光社のフリーペーパー、松山誠さんの力作「園芸探偵」No.1(2016)を一部引用


「世界と日本の最新の園芸情報を伝えた『実際園芸』」
1926(大正15)年、大正から昭和という時代の変わり目に誕生した「実際園芸」は、数多くの優れた園芸人の技術や知識をわかりやすい写真や図を用いて広く伝え、日本の園芸技術向上に大きな貢献をした。

(中略)
国全体が戦争に向かっていく時代における平和の象徴であった。
しかし、まさしくその平和が壊れていくとき、真っ先に休刊を余儀なくされたのも皮肉なことである。

(宇田注 1941(昭和16)年12月号で休刊)
(中略)
誠文堂新光社の社長 小川菊松にとっても苦渋の選択だった。
(中略)
終戦から1か月後の9月15日に倉庫に残っていた紙で企画出版された「日米会話手帳」が、推定360万部を超えるという空前の大ヒットを記録。
その勢いもあったのか、食糧難時代の要請に応えるためだったのか「農耕と園芸」という名前のもと1946(昭和21)年2月号から戦後の第一歩を踏みだした。


戦後いち早く農耕と園芸と誌名をかえて復刊できたのは、石井勇義の情熱と、機を見るに敏な小川菊松の経営能力。

最終号の特集はメロンで、花の記事は悲しいほど少ない。

それでも個人的にうれしかったことがあります。

わたしが長年一緒に仕事をした3人の記事がありました。


研究仲間 山中正仁さん
研究者の横顔 令和5年度園芸学会園芸功労賞受賞
農学関連の学会で表彰された研究者の人物に迫る連載「インタビュールーム」。
今回は令和5年度に「カーネーション切り花の養液土耕を核とした生産力強化に関する研究と普及」で園芸学会園芸功労賞を受賞した山中正仁さんを紹介。

若手のホープだった彼がもう定年か・・。

先輩の土壌肥料研究員だった
渡辺和彦さん
連載「渡辺和彦の篤農家見聞録」

わたしは渡辺さんから、土壌の化学分析、植物栄養分析の手ほどきをうけました。
そのおかげで、STS(チオ硫酸銀錯塩)による切り花の日持ち延長のしごとをしたとき、切り花に吸われた銀がどこに分布するかを調べることができました。

大学の後輩であり、同郷のホルティカルチャリスト
月江成人さん
「新花き探索 ヴィオラ・パルメンシス」
大学時代には1,000属検定のゴールドメダリスト。
卒業後、英国ウイズレー、カナダ ナイアガラ植物園、南米の植物園で研修。
わたしが知っているなかではもっとも植物にくわしい。
希少植物の栽培、ガーデンデザインにも堪能。
記事に添付されている写真には
「カナリア諸島、パルマ島で5月に撮影」とある。
世界中を駆けまわっているようで、元気でなにより。

 

市場情報

切り花関東

アジサイについて

(株)大田花き花の生活研究所

桐生進所長の執筆でなかったのはすこし残念。

昔話になると、いっそう長文駄文になるのが高齢者の悪弊。
現実に目を向け、「農耕と園芸」なきあとの花産業の情報入手・発信をどうするのか?

最終号に掲載された編集主幹 石井勇義のことば「科学技術受け入れの素地を」の続きを
ことばを引用します。


農業技術がアプライド・サイエンス(宇田注 応用科学である以上、農学を軽視して生産技術の高度化はあり得ないが、一方に於いて、農耕者が未だ新しい知識、技術を自己の耕地に試みようとする者は一、二の新進者に限られ、一般には従来の民族的技術にのみ執着し、技術者の新しき指導に耳を傾けようとする者の、意外に少ないことを知るのである。
(中略)
新しい技術の浸透を計るには、まず科学的に農民の蒙を啓き、新技術に耳を傾けしめる素地をつくることこそ急務である。
農業技術の普及機関は挙げて最高技術の末端までの浸透を期さねばならぬ。


焼け野原、食糧難の戦後、

石井勇義の「ことば」にしたがい、

農業技術者、研究者は科学的栽培技術の開発と普及にまい進し、生産者は熱心に新しい技術をとりいれ、高度経済成長、そしてバブル時代まで20世紀を駆け抜けてきました。
それはわたしが技術者・研究者であった時代に重なります。

その石井勇義の「ことば」の賞味期限は20世紀末で切れました。
石井勇義の「実際園芸」、「農耕と園芸」に頼った時代が完全に終わりました。

しかし、

まだわたしたちは、石井勇義の「ことば」にかわる、21世紀AIの時代を生きるための「ことば」を持ちあわせていません。

宇田明の『もう少しだけ言います』(No.435. 2024.6.30)

2015年以前のブログは

http://ameblo.jp/udaakiraでご覧頂けでます

 

農業協同組合新聞のweb版(JAcom 無料)に、

コラム「花づくりの現場から」を連載しています。
https://www.jacom.or.jp/column/