教育年齢差による見解の必要性 | さなじゅんオフィス

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平成から令和に変わって 昭和は遠くなりにけり
ここに来て高齢男性の生意気さが報じられている
私も同感だ


自分勝手な行動や言動を吐き出しながらわがもの顔で生きている老人がめっきり多い
私も3回こう言う高齢者に接したのだが
相手は殴られると言う怖さもないのだろうかと首をかしげる


世の中に不満があるのか
思い通りの人生ではなかったのか
家庭での居場所がなくて威厳を外で発散しているのか不明


こういう高齢者は確かに自分本位なのだ
そこでゆっくり考えてみた
高齢者の時代の世の中の生き方がどう過ごしてきたのか


振り返ればこの時代は根性論だった
忍耐力が男の勲章の時代でもある
今のように蚊に刺されても弁護士登場のあまい時代ではない


その反動が現代の何でもアリに反応して 尖っているのだろうか
男が台所に入ってはいけない環境で生きて来た高齢男性
男は簡単に泣いてはいけない教育下で生きて来た老人たち


ここに来て人生論が荒れて来ている
ちょっと昔は会社で殴られるのは序の口だった
今のように温かくパワハラだセクハラだと言い付ける弱い人間はいなかったのだ


時々TVで吊るしあげられるご老人議員の上下関係認識論
恫喝するのも普通の出来事としてそんな教育で生きて来たのだが
法律の度重なる改正でちょっとモノを言えば逮捕される時代に変わった


私は教育の過程は責められないような気もすると感じている
30代のパワハラ意識と70代のパワハラ意識は根本的に違うのではないか
同じ法律で判断するには抵抗があると言える


高齢者の裁判はその時代の教育環境を反映して考慮すべきでもあり
現代法で判決されるのはある意味公平ではないとも言える
確かに私の時代はイチイチ親に言いつけて弁護士を使うような弱虫はいなかった


先輩にしごかれて腕立て伏せを強要させられても1人で耐えて来たし
デブやノッポだと悪口を言われても思い出のひとコマに過ぎない
そう考えれば高齢者の生意気さを笑って注意する器量で接してあげることも選択肢だ


人生100年時代
教育の急激な変遷で法律の見解を許容しても間違ってはいない気もする
何事も「国のせい」「人のせい」「何でも弁護士さんに助けて貰える」自己責任擁護は


決してカッコいい人間の生き方ではない
優しさや厳しさは年代によっては他人を傷つけてはいないのだが
ギスギスの年齢層の感覚の違いから見える人間観がそのことにを気づこうとしない