丹検隊 | 森中あゆみの「山と薬膳で、ココロとカラダをまるごと養生♩」

森中あゆみの「山と薬膳で、ココロとカラダをまるごと養生♩」

「世界の国の人と自然」を愛するヨメが
「岩と雪と氷」を愛したダンナと
日々のつれづれを発信します。

OB会翌日は、おしのび?で丹検隊!
「丹」という言葉をキーワードに渡来人が気になって仕方ない私・・・。ドクター改め、

毒ター、改め、毒丹にあちこち連れってもらう・・・。


まずは多賀大社へ。名物の糸切餅を食べる。このおもちは、元寇に由来する。

二度にわたるモンゴルからの襲撃時、台風や嵐(=神風)で戦わずして難を

逃れた日本。


人々は、お餅にモンゴルの旗の色、赤と白と青の線を描き、三味線の糸で切り

離して、喜び合ったそう。刃物を使わないで切り、平和を願ったのだというから、

今の日本より意識は高いかも!


モンゴルが攻めてきたのは九州での出来事。なぜ、九州でなく、海なし県の

滋賀のお多賀さんの名物になったのか???渡来人関係ある???と思った

けれど、どうやらそこは違うみたい・・・。


お多賀さんは、伊弉諾伊弉冉が主神、つまり天照大神ほか、やおよろずの神さま

の祖。多くの武士が戦勝祈願でお参りに来てたらしい。


渡来人、関係があると言えばあるけど、そういう関係性を探しているのではなく、

ここは見学後、さっさと退散。もっと調べてこなければ・・・。


その後、芸能の神さま、猿田彦命を祀った蝉丸神社を見学してから、再び京都へ。

三柱鳥居が異様な雰囲気を醸し出している、木嶋坐天照御霊神社へ。長すぎて

難しすぎて読めない・・・。このしまにますあまてるみたま神社だそう・・・。日本唯一

の三柱の鳥居だそう。

これ、とても不思議。鳥居は神社の門のような役割を果たしているはずだけど、三角

ってどういうこと? 神社内の神域でなく、鳥居に取り囲まれた小さなスポットが重要と

いうこと?


この辺りは、渡来人、秦氏が多く住んでいたと言われる地で、この鳥居も何かその関係

があるのではないか?と言われているらしい。


ちなみに、ここからそう離れていない場所に、蛇塚古墳というのがあって、ここにも

連れってもらったのだが、これまたゾクッとする場所だった・・・。何の変哲もない住宅地

にいきなり現れる石積みの古墳。正確には、墳丘がなくなって、石室が剥き出しになって

いるのだそう・・・。


この蛇塚は、秦氏の代表ともいえる、秦河勝のお墓ではないかと言われているとか。

この古墳がまた、解明できていない不思議ポイントがあるらしく、調べれば調べるほど

に歴史のロマンを感じる・・・。

最後にお酒の神さまを祀る松尾大社へ。ここは秦氏と深い関わりがあると言われてます。


もともとは背後の松尾山を神として、お山の神々を祀っていたらしい。、中腹には磐座と

呼ばれる場所が今もあるのだそう。のちに秦氏が周辺に住み着き、大陸からの様々な

文化や知識、技術(芸能や酒造、養蚕、機織り、古墳づくりなど)を各地で広め、やがて

この地に神殿を創建し、神を磐座から神社へ下ろしお祭りしたという。


この地は嵐山から目と鼻の先、時に荒れ人々を悩ませる川に堤防を作ったのも秦氏。

(=大堰川)

秦氏は、この地が、風水学的に優れた地で、反映することを見通していたのだ・・・。


そういえば、松尾大社のすぐ近くに、月読神社がある。

あらす田(水の豊かな富んだ地)に月読尊をお祭するように、とのことでこの地に神社を

作ったことが、嵐山の名の起源だそうで、秦氏が住み着いた理由がうかがい知れる。

昨日行った伏見稲荷も、ルーツは秦氏。

月桂冠大倉記念館にあった祈符。

酒造は渡来人が持ち込んだ文化なので、当然、この地と渡来人は深いつながりが

あったはず。

記念館にある灯籠の足元には、マリア様ともキリストとも言われる線刻がある。

このすぐそばに高山右近の屋敷があったのだとか・・・。実は屋敷とは名ばかりの

教会であったらしい。渡来人とのかかわりがないはずはない。


月桂冠の建物の裏側に続くこの小道は、教会への道であった。伏見に城を構えた

秀吉を刺激しないよう、町家で囲まれた場所であったという。渡来系の人たちが多く

住んでいたこの地は、かくまうにふさわしかったのではないかな・・・。


知れば知るほど、どんどん面白くなってくるな~~。

そして、民族がどうのとか、日本文化がどうのとか、パクリ疑惑とかなんとかかんとか、

とかくボーダーを意識している私達だけれど、実はきっと、渡来人との混血で、もはや

純粋な日本人なんでほとんどいないのではないかと思うし、日本文化も元を正せば

渡来したものでは?と思うものが多い・・・。


人類皆兄弟!ということか!