トラックから積み降ろされ、沈殿槽を使った豆の良し悪しを見分ける作業には前回紹介したパルプの脱穀が続き、その後は豆の大きさによる選別を行うが、これは熟していない緑豆が熟した豆よりも大きい事を利用した選別方法で、やはり「原始的」で可愛いものだ。この様な伝統的な、コーヒーの最高の味を引き立てる工程は精製工場主が代々保守してきたもので、今でも見事に残されている事はこう言った方々の、おいしいコーヒーの守り神的努力によるところが大きい。
だが前述の選別工程の次に来る、豆のミュシラージと言うヌルヌル、べたべたした層を発酵槽を使って取る作業はもう少し高度な技術を使った作業だ。ここで「ミュシラージ」と「発酵槽」と言う二つの専門用語が出たので説明すると、ミュシラージは前回紹介したピスタッチョの様なパーチメント状になったコーヒー豆の直ぐ外側に張り付いている、納豆のようにヌルヌルした層だ。この層はコーヒー豆のパルプを除去した時点で取り除かないと酸化してコーヒー豆を腐らせてしまい、味に影響が出てしまう。この除去に一番適しているのは発酵槽を用いた工程で、約2メートルの高さの槽にミュシラージが付いたパーチメントになったコーヒー豆を積んで、文字通り発酵させるのだ。
だが、発酵は当然ながら豆自体を発酵させるのではなく、適切なレベルまで発酵するとパーチメントから剥がれるヌルヌルのミュシラージのみ、発酵と言う化学反応をさせるのだ。この工程が無事終わると前回説明した、「水洗式精製」の名の由来である水洗いによる、剥がれやすくなったミュシラージの除去が、豆が発酵槽からパティオまで運ばれる過程で行われる。
ところで、この水洗式精製のほぼ最後となる水洗い工程だが、この最終段階でもまた豆の良し悪しの選別が行われる。この選別方法の原理は前回紹介した沈殿槽と同じで、密度が高い=良く成熟した豆は水に流れると共に、密度が低く、軽く発育不十分である豆よりも沈みやすい。特に流水速度が低い、コーヒー豆が流れる溝の最終部分では浮き豆と沈み豆の差が出るので分類が簡単に出来る。こうして水洗式精製における豆の選別工程を三つも紹介したが、乾式精製工程においても多くの豆の選別工程が実施され、精製工場主のコーヒー豆の品質に対するこだわりが良く理解出来る。
尚、上記でコーヒー精製作業の一部が原始的で可愛いという表現をしたが、確かに一見その様に見え、そう言う一面もある。だが実態は当然ながらそれ程安易な作業ではなく、おいしいコーヒー作りに永く専念した職人の豊かな経験や鋭い感を必要とする技術を含む。これらの要素が含まれて始めて焙煎しておいしさを引き出せるコーヒーが出来るのだ。
コーヒー精製工場主が品質にこだわるが為に守り続ける伝統を紹介する事によって、おいしいコーヒを仕上げる工場主の努力の素晴らしさを説明したが、次回は変化するコーヒー産業における農園オーナーや工場主の味を第一としたコーヒー作りを維持し続けるべく対応を述べる。
コーヒー農園や精製所には、子供の頃ディズニーランドを訪れてわくわくさせられた気持ちを思い出させてくれる「催し物」が沢山ある。例えば、初めて嗅ぐ時は好ましい印象を受けなくとも、コーヒー農園の絶大な魅力に囚われるにつれて愛しくなるコーヒー豆のパルプ(果実)が発酵しかけた独特の匂い。このパルプは水洗式精製方法で剥かれるのだが精製所の片隅に山になって貯められたものだが、中米コーヒーの精製方法はこのパルプのツーンと鼻にくる匂いの様に、何十年も前から変わらないものなのだ。
この様に中米のコーヒーが今でも長い伝統を誇る技術をもって精製されるのは、精製所のオーナーや精製所を兼ねている農園主が長い年月の試練に耐えた技術に大きな信頼をおいている為だが、そのお陰でコーヒーを愛する我々は今でも昔ながらの、味わいの深いコーヒーの精製方法を目にする事が出来る。
この様な伝統技術にどう言ったものがあるのかと言うと、例として先ず挙げられるのは、以前の投稿で紹介済みの手作業による摘み取りを始めとする農作業、コーヒーの水洗、或いはパティオに豆を敷いた上での、これもまた手作業による天日乾燥がある。何故こう言った伝統技術に愛嬌があるのかは、豆の摘み取りと乾燥作業については触れたが、コーヒーの水洗に関して言及すれば、やはり愛嬌のある作業だからだ。
コーヒー豆の水洗とはどう言う事か-豆を洗うのは、もしかしたら読者の方は農園で被った土やほこりを取る為に洗うのかと思われるのかも知れないが、そうではなく、後日紹介するある工程を経た豆が周りに着いたべたべたした粘膜を取る為に水洗するのだ。この洗い方は、終わったばかりの工程から次の乾燥工程を行うパティオに移す過程を利用し、溝に水を流して豆を運搬するのだが、然りと豆が洗われる様に水の流れに乱流が起こる様に溝の底が波上になっていたり、豆が流れ始める場所から最終目的地点までに高低差がある場合、勾配がある部分は階段状にしたりする。
過去の投稿で説明したが、こうして水洗される豆はピスタッチョの様に豆の外部に一部先が開いた殻を持ったパーチメントと言う状態になっており、こうした豆が多数一緒になっているのを動かすとシャーシャーと言う音がする。水に流されているパーチメント状のコーヒー豆もこの様な個性的な音をたてて、精製所を賑やかにする。
精製工程をもっと最初から見ていくとまだ面白い伝統的な手法が確認出来る。例えば実はコーヒーの水洗式精製では農園から届いた豆をトラックから一時保管槽へ積み降ろしてからパティオに運ばれるまで、全て上述の溝に流された水によって運ばれるのだが、保管槽から次にたどり着くのは沈殿槽だ。
この沈殿槽は豆の密度によって良し悪しを区別する為のものだが、沈んだ豆は密度が高く、良く発育し熟した豆で、浮いた豆は一対になっている豆の片側が無かったり、乾燥してしまったりして十分に発育しかねた豆や過成熟の豆だ。こうした豆は本来は紛れ込んでいるべき物でないが、当然の事ながら人手によるものでも完全に機械によるものでも作業にはエラーがあり、それをこの沈殿槽等の工程を用いて取り除くものである。この様な工程は原理が単純な為に原始的に見えるものだが、何とも愛嬌があるものではないか。
次回も農園主や精製工場オーナーの日々のおいしいコーヒー作りの努力がどれ程コーヒーの魅力を更に引き立てているかを紹介し続ける。
この様に中米のコーヒーが今でも長い伝統を誇る技術をもって精製されるのは、精製所のオーナーや精製所を兼ねている農園主が長い年月の試練に耐えた技術に大きな信頼をおいている為だが、そのお陰でコーヒーを愛する我々は今でも昔ながらの、味わいの深いコーヒーの精製方法を目にする事が出来る。
この様な伝統技術にどう言ったものがあるのかと言うと、例として先ず挙げられるのは、以前の投稿で紹介済みの手作業による摘み取りを始めとする農作業、コーヒーの水洗、或いはパティオに豆を敷いた上での、これもまた手作業による天日乾燥がある。何故こう言った伝統技術に愛嬌があるのかは、豆の摘み取りと乾燥作業については触れたが、コーヒーの水洗に関して言及すれば、やはり愛嬌のある作業だからだ。
コーヒー豆の水洗とはどう言う事か-豆を洗うのは、もしかしたら読者の方は農園で被った土やほこりを取る為に洗うのかと思われるのかも知れないが、そうではなく、後日紹介するある工程を経た豆が周りに着いたべたべたした粘膜を取る為に水洗するのだ。この洗い方は、終わったばかりの工程から次の乾燥工程を行うパティオに移す過程を利用し、溝に水を流して豆を運搬するのだが、然りと豆が洗われる様に水の流れに乱流が起こる様に溝の底が波上になっていたり、豆が流れ始める場所から最終目的地点までに高低差がある場合、勾配がある部分は階段状にしたりする。
過去の投稿で説明したが、こうして水洗される豆はピスタッチョの様に豆の外部に一部先が開いた殻を持ったパーチメントと言う状態になっており、こうした豆が多数一緒になっているのを動かすとシャーシャーと言う音がする。水に流されているパーチメント状のコーヒー豆もこの様な個性的な音をたてて、精製所を賑やかにする。
精製工程をもっと最初から見ていくとまだ面白い伝統的な手法が確認出来る。例えば実はコーヒーの水洗式精製では農園から届いた豆をトラックから一時保管槽へ積み降ろしてからパティオに運ばれるまで、全て上述の溝に流された水によって運ばれるのだが、保管槽から次にたどり着くのは沈殿槽だ。
この沈殿槽は豆の密度によって良し悪しを区別する為のものだが、沈んだ豆は密度が高く、良く発育し熟した豆で、浮いた豆は一対になっている豆の片側が無かったり、乾燥してしまったりして十分に発育しかねた豆や過成熟の豆だ。こうした豆は本来は紛れ込んでいるべき物でないが、当然の事ながら人手によるものでも完全に機械によるものでも作業にはエラーがあり、それをこの沈殿槽等の工程を用いて取り除くものである。この様な工程は原理が単純な為に原始的に見えるものだが、何とも愛嬌があるものではないか。
次回も農園主や精製工場オーナーの日々のおいしいコーヒー作りの努力がどれ程コーヒーの魅力を更に引き立てているかを紹介し続ける。
今般の世界金融経済危機によって世界金融業界、また成長の為には金融業界を欠かせない世界経済は、1930年前後の世界大恐慌以来の経済不況を経験した。これ程の大不況が起こった理由は多くの経済学者が説明しており、直近の理由は主にアメリカの不動産業から債務不履行となってしまった債権が多く出回りすぎてしまった為に、そう言った債権を所有した金融業界などが損を被った事に要約出来る。もう少し根本的な理由は、経済における希少な資源は自由経済が最も効率良く配分すると言う経済至上主義に目がくらんでしまった結果として、世界金融業界の規制が余りにも緩いものになってしまった事や、より中核部分に迫れば人間の金銭に対する醜い程の貪欲さと言った所だろう。
一方、この世界金融経済危機は、ヨーロッパのPIGSと呼ばれるようになった国々を始め、債務危機と言う、不景気から完全に立ち直っていない世界経済を再度不況に落とし込める、次なる経済危機をもたらそうとしている。但し、今回の債務危機は発展途上国が中心となっていた過去のものと違い、多くの先進国がもたらした債務危機だ。従来は先進国の問題でなかったのだが、如何して先進国が債務国としての被害を被るようになったのか。発展途上国の場合は、大概の場合、発展途上国政府の財政政策やその実行が長期的に持続出来るようなものでなかったり、汚職を含む国家予算の乱用が酷い為に起こるのが普通だ。
だが今般の先進諸国の債務問題は政府ばかりに問題発生の責任があるものではない。と言うのも先進国の債務危機は公的債務ばかりではなく、企業どころか個人の債務を含めた民間部門の債務も多く含まれているからだ。公的債務で国内総生産比200%を超えた日本の債務は英国週刊誌The Economistによると、民間部門も含んだ国全体の債務は国内総生産比400%を超えている。世界屈指の貯蓄率を誇った日本を始め、経済発展の見本だった先進国の債務はどの様にしてそれ程のレベルにまで膨れ上がってしまったのだろうか。
原因は上述の通り当然ながら政府にばかりあるのではなく、単純に言えば金銭至上主義を重視している現代社会の主流となってしまっている考え方ではないのだろうか。言い方を変えれば消費重視社会に責任があるのではないだろうか。
自動車、テレビ、冷蔵庫などの耐久消費財は故障して無くても2,3年で買い替える-。周りに居る人より高いファッションデザイナーの服装を身に着けたり、家より高い高級車を買ったり、ゴルフクラブの会員になったり、高級料理店で夕食をしたりするのは、最低限必要な生き方-。こう言った生き方をするには多額の収入が必要であるので一日に10時間でも12時間でもそれ以上でも働き、その収入でも間に合わなかったら、債務を負ってでも実行する-。
この様な消費者の心理を作り上げた責任は企業側にもある。メーカーは一昔前みたいに耐久消費財を何十年でも持つように経済的に造れるが、買い替えを促す等の為に意図的にたったの数年で故障する様に設計する。商品の広告や宣伝には、近年では良くなったもののお客様である消費者を騙してでも売りつける様なものが多い。歴史を見返れば、肺がんになる確率が高いのが判明していてもその事実を隠したタバコの売り方や、建築基準に合わない建物の建設など多くの例がある。
そこまでして物を重視するのは、金銭によって人が幸せになれると思っての事だろうが、人生を楽しむ時間を犠牲にしてまでも一生懸命仕事をした、高度成長期を経験した日本人や他の先進諸国民は果たして幸せになったのだろうか。2006年にイギリスのレスター大学の社会心理学者エイドリアン・ホワイトが計算した世界各国の幸福度によると日本は90位だったので、世界でも屈指の一人当たり国内総生産額とは裏腹の結果だ。どうやら少なくとも日本に限って言えば、金銭至上主義に目がくらんだけで、残念ながらその事が幸せな国民を育んだ訳では無い様だ。
よって、今般の先進国の債務問題は、世界金融危機を起こした人々程でなくとも、やはり金銭に対する欲がありすぎる多くの国民が引き起こした問題なのではないだろうか。日本の現状に虚しさを感じるのは、結局はこうして借りた他人の金で生活が成り立っているからでは無かろうか。そこまでして金銭を拝む必要があったのだろうか。日本の将来に、今居るくらいどん底から抜け出る為の明るい出口はあるのだろうか。日本のこれからを考えると疑問ばかりが残る。
一方、この世界金融経済危機は、ヨーロッパのPIGSと呼ばれるようになった国々を始め、債務危機と言う、不景気から完全に立ち直っていない世界経済を再度不況に落とし込める、次なる経済危機をもたらそうとしている。但し、今回の債務危機は発展途上国が中心となっていた過去のものと違い、多くの先進国がもたらした債務危機だ。従来は先進国の問題でなかったのだが、如何して先進国が債務国としての被害を被るようになったのか。発展途上国の場合は、大概の場合、発展途上国政府の財政政策やその実行が長期的に持続出来るようなものでなかったり、汚職を含む国家予算の乱用が酷い為に起こるのが普通だ。
だが今般の先進諸国の債務問題は政府ばかりに問題発生の責任があるものではない。と言うのも先進国の債務危機は公的債務ばかりではなく、企業どころか個人の債務を含めた民間部門の債務も多く含まれているからだ。公的債務で国内総生産比200%を超えた日本の債務は英国週刊誌The Economistによると、民間部門も含んだ国全体の債務は国内総生産比400%を超えている。世界屈指の貯蓄率を誇った日本を始め、経済発展の見本だった先進国の債務はどの様にしてそれ程のレベルにまで膨れ上がってしまったのだろうか。
原因は上述の通り当然ながら政府にばかりあるのではなく、単純に言えば金銭至上主義を重視している現代社会の主流となってしまっている考え方ではないのだろうか。言い方を変えれば消費重視社会に責任があるのではないだろうか。
自動車、テレビ、冷蔵庫などの耐久消費財は故障して無くても2,3年で買い替える-。周りに居る人より高いファッションデザイナーの服装を身に着けたり、家より高い高級車を買ったり、ゴルフクラブの会員になったり、高級料理店で夕食をしたりするのは、最低限必要な生き方-。こう言った生き方をするには多額の収入が必要であるので一日に10時間でも12時間でもそれ以上でも働き、その収入でも間に合わなかったら、債務を負ってでも実行する-。
この様な消費者の心理を作り上げた責任は企業側にもある。メーカーは一昔前みたいに耐久消費財を何十年でも持つように経済的に造れるが、買い替えを促す等の為に意図的にたったの数年で故障する様に設計する。商品の広告や宣伝には、近年では良くなったもののお客様である消費者を騙してでも売りつける様なものが多い。歴史を見返れば、肺がんになる確率が高いのが判明していてもその事実を隠したタバコの売り方や、建築基準に合わない建物の建設など多くの例がある。
そこまでして物を重視するのは、金銭によって人が幸せになれると思っての事だろうが、人生を楽しむ時間を犠牲にしてまでも一生懸命仕事をした、高度成長期を経験した日本人や他の先進諸国民は果たして幸せになったのだろうか。2006年にイギリスのレスター大学の社会心理学者エイドリアン・ホワイトが計算した世界各国の幸福度によると日本は90位だったので、世界でも屈指の一人当たり国内総生産額とは裏腹の結果だ。どうやら少なくとも日本に限って言えば、金銭至上主義に目がくらんだけで、残念ながらその事が幸せな国民を育んだ訳では無い様だ。
よって、今般の先進国の債務問題は、世界金融危機を起こした人々程でなくとも、やはり金銭に対する欲がありすぎる多くの国民が引き起こした問題なのではないだろうか。日本の現状に虚しさを感じるのは、結局はこうして借りた他人の金で生活が成り立っているからでは無かろうか。そこまでして金銭を拝む必要があったのだろうか。日本の将来に、今居るくらいどん底から抜け出る為の明るい出口はあるのだろうか。日本のこれからを考えると疑問ばかりが残る。