最初はエゴにどっぷり浸かっています。
だから自分の見る世界がすべて。
つまり自分が体験している現実、
エゴが見ている世界以外の世界の
だから自分の見る世界がすべて。
つまり自分が体験している現実、
エゴが見ている世界以外の世界の
存在を知りません。
自分のエゴ視点でのみ、世界を判断しています。
そのエゴは、
存在意義を求め、
愛されることを求め、
自立することを求め、
本当の自分を探し、
さまよいます。
生きづらさから脱却するために、
自分自身を見つけるために、
長い精神の旅に出ます。
多くの人は出発しないか、出かけても途中であきらめます。
まだ旅を続けているのなら、それはとてもラッキーです。
まだ生き辛さの中にいたとしても、すごくラッキーです。
長年の葛藤の末、運よく自己受容できたら、
そこから新しいフェーズが始まります。
自己探求はその後も続きます。
エゴ以外の自分の存在に気づき、もっと自分を探っていくうちに「自分なんてない」と気づきます
自分を探り続けていくと、どこかで反転します。
自分の内から広大な世界と宇宙が広がっているのを感じます。
自分のエゴ視点でのみ、世界を判断しています。
そのエゴは、
存在意義を求め、
愛されることを求め、
自立することを求め、
本当の自分を探し、
さまよいます。
生きづらさから脱却するために、
自分自身を見つけるために、
長い精神の旅に出ます。
多くの人は出発しないか、出かけても途中であきらめます。
まだ旅を続けているのなら、それはとてもラッキーです。
まだ生き辛さの中にいたとしても、すごくラッキーです。
長年の葛藤の末、運よく自己受容できたら、
そこから新しいフェーズが始まります。
自己探求はその後も続きます。
エゴ以外の自分の存在に気づき、もっと自分を探っていくうちに「自分なんてない」と気づきます
自分を探り続けていくと、どこかで反転します。
自分の内から広大な世界と宇宙が広がっているのを感じます。
*ーー*
須美の場合
一回の瞑想でスゥーっとたどれるのはここまでです。
この後のことは、瞑想に明け暮れ、あるネイティヴな秘跡の最中に気を失った時に辿った流れの先の話です。
気を失った時の幻想なのか?
気を失った時の幻想なのか?
何回瞑想してもここまでで、あそこに行けません
*ーー*
それでも探求を続けていくと、ますますこの現実も自分も、幻想だということがわかります。
この自分がいないところに本当の自分がいるというか、
それはすでに自分という領域を、超えたところにあるもの。
すべての源、本質とでもいいましょうか?
自分を構成するものはすべて、自分の外から来ています。
一人の個人としての意識と、源流とを行きつ戻りつしながらも、
その根底にずっと在り続けるエネルギーと共にある人が自然体な人。
滅多にそういう人はいないでしょう。
だからと言って、そうなれないわけではないと思います。
だって、もともと私たちはそうだから。
もともとそうだから、本当はなれるなれないという話ではありません。
「自分ががんばらなくては」
と思いがちなエゴがそれに気づいたら、
そこで新しい人生の扉が見えます。
ところが、これは持続しません。
気をつけないとすぐに今までの状態や習慣に戻ってしまいます。
なんども「またやってる~」と反省しながらも、普段は感じないそのエネルギーに馴染んでいくことが大事です。
この探求の旅に終わりはないどころか、知れば知るほど広がっていきます。
知識として「それわかってるよ」と言っても、体感してないならわかったことにはなりません。
悟ろうと思っている間は悟れないのと同じです。
頑張ろう、やろうと思ってもできるものではありません。
そういう思いが抜けた先にそれがあります。
それでも探求を続けていくと、ますますこの現実も自分も、幻想だということがわかります。
この自分がいないところに本当の自分がいるというか、
それはすでに自分という領域を、超えたところにあるもの。
すべての源、本質とでもいいましょうか?
自分を構成するものはすべて、自分の外から来ています。
一人の個人としての意識と、源流とを行きつ戻りつしながらも、
その根底にずっと在り続けるエネルギーと共にある人が自然体な人。
滅多にそういう人はいないでしょう。
だからと言って、そうなれないわけではないと思います。
だって、もともと私たちはそうだから。
もともとそうだから、本当はなれるなれないという話ではありません。
「自分ががんばらなくては」
と思いがちなエゴがそれに気づいたら、
そこで新しい人生の扉が見えます。
ところが、これは持続しません。
気をつけないとすぐに今までの状態や習慣に戻ってしまいます。
なんども「またやってる~」と反省しながらも、普段は感じないそのエネルギーに馴染んでいくことが大事です。
この探求の旅に終わりはないどころか、知れば知るほど広がっていきます。
知識として「それわかってるよ」と言っても、体感してないならわかったことにはなりません。
悟ろうと思っている間は悟れないのと同じです。
頑張ろう、やろうと思ってもできるものではありません。
そういう思いが抜けた先にそれがあります。
これは体感でしかわからない世界です。
言葉では表現できない世界。
本人が感じて初めてわかる世界。
その世界はあなたのまわりに、今も昔もずっと広がっています。
自分の顔を生で見れないのと同じように、めっちゃ近いがゆえに気づけないのです。
その私の本体に。