マルコによる福音

 4・35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

 この話は、弟子たちのふがいなさを際立たせています。イエスが弟子たちには神の国のたとえを懇切丁寧に説明してくれたにもかかわらず、彼らはその意味を悟らず、イエスを信頼してもいなかったように思います。

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」という弟子たちの言葉は、先生と一緒ならおぼれても構わないという覚悟が弟子たちにはなかったことを明らかにします。

 イエスは、弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言います。

 わたしたちはどうでしょうか。イエスと共にいれば怖がることなど何もないと信じているでしょうか。

 わたしたちは悪霊に取り憑かれた子どもの父親のように「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」と叫ぶしかないように思います。

 

 聖ヨハネ・ボスコ司祭については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=013101

マルコによる福音

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕4・26「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」

 30更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 33イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。

 

 イエスはご自分のたとえを「弟子たちにはひそかにすべてを説明された。」とマルコは述べますが、弟子たちはイエスの説明を聞いても分からなかったのではないかと思います。

 イエスは、種に備わっている生命力が実を結ばせるように、神の国も必ず実を結ぶと言っておられます。

 イエスが「御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」にもかかわらず、自分たちはその意味が飲み込めなかったことの反省がにじみ出ているように思えます。

マルコによる福音

 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕4・21「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。22隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、公にならないものはない。23聞く耳のある者は聞きなさい。」

 24また、彼らに言われた。「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる。25持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。」

 

 イエスの時代、「ともし火」は、夜の家の中では必要不可欠なものだったと思います。「ともし火」は部屋のできるだけ高い位置に置かれたはずです。

 「ともし火」は福音の光を指しています。イエスの「種まく人」は「福音の種」を蒔きます。福音を受けいれた人は、それを高く掲げて、暗闇を照らす必要があります。

 イエスの言葉を弟子たちがどれほど深く受けとめるか、その度合によって、実りに違いが出て来るとイエスは言っているようです。