マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは〕9・9通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 回心は「中心移動」や「根本的自己決断」と考えることができます。マタイはイエスの「わたしに従いなさい」という声を聞いて、それまで自分が大切だと思っていたことが色褪せ、この人にしたがって生きることこそ、自分の生きる中心であると思い、自分の生き方の根本的な方向を変えることができたのだと思います。

 イエスの「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」という言葉を、「わたしが来たのは、自らが正しいと思い込んでいる人を招くためではなく、自らの罪深さに苦しむ人を招くためである。」と読み替えることもできます。

 イエスに出会った瞬間、マタイは自分が生まれてきた意味、生きていく意味を見いだしたのです。

 聖マタイ使徒福音記者については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/festa0921.php

 

マタイによる福音書 20:1-16

 〔そのとき、イエスは弟子たちにこのたとえを語られた。〕1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」

 

神の思いは、人間の思いとは異なる

 

 年間第25主日のみ言葉のテーマは、「神の思いは、人間の思いとは異なる」ことだといえます。

 

 人間の思いとは、「これだけ努力したのだから、それに見合った報いがあって当然だ」、「あの人はあんなにサボっていたのに、なぜ自分と同じ扱いなのだろうか」という思いです。

 

 本日の第一朗読イザヤの預言で、主なる神は「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。」(イザヤ 55:8-9)と言います。

 

 預言者は、人間が神に逆らう道を離れ、悪を行うたくらみを捨て、神に立ち返るならば、主が憐れみ、豊かに赦してくださると説きます。神は、天が地を高く超えているように、人をはるかに超えた存在ですが、神の言葉は天から下る雨や雪が必ず実りをもたらすように、人の救いのためのみわざを行われると預言者は語ります。

 

 本日の福音朗読の直前でイエスは「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と弟子たちに言います。

 本日の福音でイエスは「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と結びますから、「ぶどう園の労働者のたとえ」はイエスの同じ言葉で挟まれています。

 

 イエスのたとえのねらいは賃金の支払いかたにあります。一デナリオンは当時の日当に当たります。この日当は、通常、夜明けから日の沈む時まで一日汗水を流して働いたことに対する報酬です。

 

 ぶどう園の主人は九時、十二時と五時に「何もしないで広場に立っている」人を見つけては、「あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう」と言います。

 彼らが、何故、何もしないで広場に立っていたのか、その理由は書かれていません。しかし、どういう事情であれ、その日の仕事にあぶれれば、自分も家族も、食事に困ることは明らかです。

 

 ぶどう園の主人は夕暮れの支払い時刻になると、午後五時に来たものから順に1デナリオンずつ支払います。列の後方に並んでいる朝から働いていた人たちは、もっともらえると思ったことでしょう。ところが最初から一日中働いたものたちにも1デナリオンしか支払われませんでした。そのことで雇い主に不平をいうと、「友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと1デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と主人は応えました。

 

 「わたしの気前のよさをねたむのか」は、直訳では「わたしが善いので、あなたの目は悪いのか」となるようです。目は心を映す鏡ですから、「目が善い」とは「寛大で広い心」を指し、「目が悪い」とは「よこしまで、ねじまがった、ねたみの心」を指します。

 

 イエスはこのたとえを人間社会の労働と賃金のことではなく、天の国がどのようなものであるかを弟子たちに教えるために語りました。

 

「天の国」は人間の労働の対価として支払われる報酬ではなく、ひたすら寛大な主である神の慈愛に満ちた恵みとして無償で与えられることをイエスは弟子たちに示そうとなさったのです。

 

 さて、イエスの話の聞き手であるペトロをはじめとした弟子たちは、この主人の対応の仕方をどう思ったのでしょうか。

 

 彼らは内心でこんな話は理不尽だと考えたのではないかと思います。

イエスに付き従うことを断念した金持ちの青年について、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」とイエスは弟子たちに言いました。その言葉を聞き、弟子たちは「それでは、だれが救われるのだろうか」と動揺しました。そのとき、イエスは弟子たちを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言います。

そのとき、ペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」とイエスに尋ました。ペトロは、イエスのたとえを聞いた後でも、自分たちは最初からイエスと苦楽を共にしてきた、いわば朝一番でぶどう園の主人に雇われた労働者の立場であると思い込んでいたのです。

 

 しかし、それはペトロの思い込みです。ペトロはイエスの予告通り、大祭司の屋敷の中庭でイエスを「知らない」と言い、三度目には呪いの言葉さえ口にしながら誓ってイエスを知らないと言い放ちました。正念場でペトロは自分がイエスとは無縁の人間であると言い切ったのです。ぶどう園のたとえからいえば、確かにペトロは朝一番でぶどう園に行った雇い人のひとりだったといえるかもしれませんが、結果的にはぶどう園の主人の期待を裏切り、職場放棄したわけです。

 

 日当を頼りにして生きている人にとって、日雇いの仕事がないのはそのまま死活問題につながることは、イエスの時代のユダヤ社会でも現在の日本の社会でも同じことです。ぶどう園の主人は仕事にあぶれて、生活の不安と情けなさにうちひしがれる人を見て、一日分の報酬を与えました。その人は法外な待遇に感謝しつつ家に帰り家族と夕食を共にすることができたでしょう。

 

ひとこと

 

 イエス様のたとえをどの立場に身を置いて考えるかで、たとえの意味が大きく変わるように思います。

 

 どんなに遅い時間(人生のどの瞬間、どんな境遇)からであっても、私たちを見つけ出して「ぶどう園に行きなさい」と声をかけてくださる主の無限の愛に感謝し、その寛大さを生きる者となれるよう、イエス様に願い求めましょう。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕8・4大勢の群衆が集まり、方々の町から人々がそばに来たので、イエスはたとえを用いてお話しになった。5「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。6ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。7ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。8また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。

 9弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた。10イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。

 11このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。12道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。13石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。14そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。15良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」

 

 イエスが種蒔きのたとえを群衆に話したとき、弟子たちはイエスにたとえの意味について尋ねました。するとイエスは、「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである。」と弟子に話し、たとえを説き明かします。

 しかし、弟子たちはイエスの説き明かしを聞いても、その言葉を理解することはできなかったのだと思います。

 その意味で使徒たちもまた、「聞いても理解できない」状態だったのです。使徒たちがイエスのたとえの真意を理解するようになるのは、「イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされた」(使5:11)時からではないかとわたしは思います。