マタイによる福音

 〔そのとき、〕9・27イエスがそこからお出かけになると、二人の盲人が叫んで、「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と言いながらついて来た。28イエスが家に入ると、盲人たちがそばに寄って来たので、「わたしにできると信じるのか」と言われた。二人は、「はい、主よ」と言った。29そこで、イエスが二人の目に触り、「あなたがたの信じているとおりになるように」と言われると、30二人は目が見えるようになった。イエスは、「このことは、だれにも知らせてはいけない」と彼らに厳しくお命じになった。31しかし、二人は外へ出ると、その地方一帯にイエスのことを言い広めた。

 

 二人の盲人の叫び声は、「ダビデの子よ」を「主よ」に代えればミサの始めのいつくしみの讃歌(あわれみの賛歌)の言葉です。

 わたしたちはいつくしみの讃歌を歌うとき、この二人の盲人と同じような切実さを持っているのかと危ぶみます。

 イエスは、祈るわたしたちに「わたしにできると信じるのか」と問われます。そのとき、わたしたちが「はい、主よ」と答え、「あなたがたの信じているとおりになるように」というお言葉をわたしたちもいただけますように。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕7・21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。

 24そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 

 パウロは、救いは信仰によって得られ、律法の行いによっては得られないと明確に述べています。しかし、これは「信仰があれば行いは一切不要」という意味ではありません。

イエスに向かって「主よ、主よ」という人は、言葉の上ではイエスに信頼していると言っていますが、

 「主よ、主よ」と言う人が、天の父の御心を行わないとすれば天の国に入ることはできないとイエスははっきり言います。

 イエスを信じる人々は、イエスの命令を守る人です。イエスの命令とは「わたしがあなた方を愛したように互いに愛し合いなさい」と言うものです。

 口先の信仰ではなく、行いに裏打ちされた信仰を生きることができますように。

マルコによる福音

 そのとき、イエスは十一人の弟子に現れて、16・15言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。16信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。17信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。18手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」

 19主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。20一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 

 復活の後、十一人の弟子に「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と命じました。

 イエスの教会は誕生当初から宣教を使命としました。福音を告げ知らせる人の話を聞き、彼らと信仰を共にした人々が洗礼を受け、更に福音を告げ知らせる人になるというリレーを続けて今に至っています。

 わたしたちが彼らと同じように宣教するとき、主がわたしたちと共に働き、わたしたちの語る言葉が真実であることをお示しになられることを実感します。

 

 聖フランシスコ・ザビエルについては、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=120301