ルカによる福音
〔そのとき、イエスは、ナザレの会堂で人々に言われた。〕4・24「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」28これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、29総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。30しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
なぜ預言者は自分の故郷では歓迎されないのでしょうか。故郷ではその人が生まれてからのことを周りの人がよく知っていると思い込んでいるからではないでしょうか。
「わたしはあなたのことをよく知っている」という思い込みは、自分が知っている以上の振る舞いをすることを許しません。また、相手の言動を「あなたのことを知っている」という思い込みで解釈します。
ナザレの会堂にいた人々は、イエスの言葉を聞いて回心するのではなく、イエスが自分たちのことを咎めていると思い、崖から突き落とそうとしました。
ルカによる福音 13:1-9
1 ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2 イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4 また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5 決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
今日のミサと来週のミサで洗礼志願者のための典礼があります。
先週は第一朗読でアブラムの召命物語が朗読されました。今週はモーセの召命物語が朗読されます。
「名は体を表す」と言いますが、聖書では名は単なるものの名称ではなく、そのものの実体を指します。神は燃える柴の中からモーセに呼びかけ、エジプトで奴隷になっているイスラエルの人々を脱出させるように命じます。
「彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」とモーセが神に問いかけると、神は「わたしはある。わたしはあるという者だ」と答えます。
この答えが神の名前ではないことは明らかです。神は人間がその名を知ることのできない存在であるとも言えます。神の名を尋ねるモーセに神は名乗らず「わたしはあなたと共にいる」と告げました。モーセに顕現した神は、モーセと共にいて働き続ける神です。
十戒は、「神の名をむなしく呼んではならない」と命じていますが、それは、自分の都合のよいように神の名を利用してはならないという意味です。
マタイ福音書では、イエスが天に上げられるとき弟子たちに、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」と約束してくださいました。
第2朗読は使徒パウロのコリントの教会への手紙です。コリントの教会の人々の中には、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」(5:11)がいました。
パウロは出エジプトの出来事を引用し、エジプトから脱出した全員が神の恵みを受けたにも関わらず、彼らの大部分が御心にかなわず、滅びてしまったことを引き合いに出し、互いに不平を言い争いの絶えないコリントの教会の人々に「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」と警告します。
今日の福音でイエスが言う事件とは、ローマ総督ピラトがエルサレム神殿で礼拝に訪れたガリラヤ人を残虐な仕方で殺害した事件です。
イエス時代のユダヤ人たちも災害や病い、事件や事故に遭遇することを、その当事者や家族の罪による罰と考えることが一般的だったようです。
この知らせを伝えられたイエスは、「あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる。」と警告します。しかし、イエスは、悔い改めれば災難に遭うことはないと言っているわけではありません。
イエスは、災害や事件の知らせに一喜一憂するという皮相的な生き方から、罪を赦し永遠のいのちを与える神を深く信頼する生き方へ向き変わるように説いています。
続く、イエスのたとえ(謎かけ)には園丁と主人との不思議な会話があります。いちじくの木を植えたのは主人ですが、世話をしているのは園丁です。三年も実を結ばない木を切り倒せと命じる主人に対して園丁は、「木の周りを掘って、肥やしをやってみます」と実をつけることのない木の世話を更に一年続けることを提案し、それでも実をつけなければ、主人が切り倒すように願います。毎日この木の世話をしている園丁はいちじくの木をいとおしんでいるのです。
このたとえに現れるこの園丁とは誰のことを指すのでしょうか。園丁をイエス、主人を神とする見方もあるようです。この見方に従えば、イエスは不毛のいちじくの木のようなわたしたちを精魂込めて手入れし、いとおしんでおられます。
洗礼を受けてはいても弱い私たちは、いのちの与え主、贖い主である方、身を委ねるべき方から、他のものに目を奪われいつの間にかその奴隷になってしまうこともあります。
四旬節は洗礼志願者と悔悛者のための典礼が行われます。洗礼志願者がいない教会でも、「解放を求める祈り」がささげられるのは、洗礼を受けた人たちの悔い改めのためです。
ルカによる福音
〔そのとき、〕15・1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。
11「ある人に息子が二人いた。12弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。13何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。14何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。15それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。16彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。17そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。18ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。19もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』20そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。21息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』22しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。23それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。24この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
25ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。26そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。27僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』28兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。29しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。30ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』31すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。32だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」
このたとえに登場する兄弟は二人とも父親とは離れていたと聞いたことがあります。弟は財産を持ち出し、物理的に家を飛び出しましたが、兄は父親と一緒にいても、不平や不満で一杯だったと言うのです。
確かに兄は父と一緒にいましたが、その心は父親に寄りそっていたのではありませんでした。
兄は、父親が弟の帰還を喜んでいるのに耐えきれず、不満をぶつけたのです。
このたとえの続きはどうなると思いますか。今度は兄が家を飛び出したかも知れません。