マタイによる福音

 〔そのとき、〕23・1イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。2「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。3だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。4彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。5そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。6宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、7また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。8だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。9また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。10『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。11あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。12だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」

 

 「モーセの座」は実在したのか調べて見ました。

 すると、「イスラエルのガリラヤ地方にあるコラジン(Chorazin)やディモンなどの古代シナゴーグ跡の発掘調査では、黒色玄武岩で作られた立派な石製の椅子(肘掛けや背もたれ付きのベンチ・椅子)が実際に発見されています。これらは「モーセの座」 (Seat of Moses / Cathedra of Moses) と呼ばれ、現在ではエルサレムのイスラエル博物館などに所蔵されているものもある」ことが分かりました。

 古代の会堂において、モーセの律法を朗読し、解き明かして教えることは非常に権威のある行為でした。ルカによる福音書(4章20節)でも、イエスがナザレの会堂で聖書を読んだ後に「座って」教え始めたという描写があります。その教えの座に座る人は、モーセから受け継がれた律法の解釈権や権威を継承しているとみなされていました。

 イエスは、彼らが座る「モーセの座」そのものや、そこから説き明かされるモーセの律法の権威や教え自体は認めていました。問題視したのは、その権威ある座に座りながら偽善的なふるまいをする指導者たちの「生き方」の方でした。

 カテドラはカトリック教会では司教座のことです。司教座のある教会をカテドラルと言います。

 各小教区には説教壇があります。司祭はそこで説教をする義務があります。イエスから、「彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。」と言わないようにと自戒します。

 

 天の元后聖マリアについては、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=082202

 

マタイによる福音

 〔そのとき、〕22・34ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。35そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。36「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」37イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』38これが最も重要な第一の掟である。39第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』40律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

 イエス時代のユダヤ教では、モーセの律法(いわゆる「十戒」など)を細分化していき、「してはならない戒めが365、しなければならない戒めが248」あわせて613もの細かい規定があるとされていました。

 人々は「どれが最も重要か」について、当時の学者たちの間でさまざまな議論を交わしていました。

 もしイエスが「この掟(例えば特定の儀式や休日に関する規定など)が一番重要だ」とどれか一つでも答えたら、専門家たちは次のように反論する準備をしていました。「では、他の何百という大切な律法軽視するのか」と告発するか、別の有力な解釈を持ち出して、イエスの権威や正統性を失脚させようとするねらいがあったのです。

 この悪意ある「試み」に対し、イエスは巧みな罠にかかることなく、旧約聖書(申命記とレビ記)から「心を尽くして神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」の2つを挙げ、「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」と見事に要約して答えました。

 イエスを窮地に陥れようとした律法の専門家の試みは、この本質的かつ圧倒的な答えの前に封じ込められることになりました。

 

 教皇聖ピオ十世については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=082101

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに〕22・1たとえを用いて語られた。2「天の国は、ある王が王子のために婚宴を催したのに似ている。3王は家来たちを送り、婚宴に招いておいた人々を呼ばせたが、来ようとしなかった。4そこでまた、次のように言って、別の家来たちを使いに出した。『招いておいた人々にこう言いなさい。「食事の用意が整いました。牛や肥えた家畜を屠って、すっかり用意ができています。さあ、婚宴においでください。」』5しかし、人々はそれを無視し、一人は畑に、一人は商売に出かけ、6また、他の人々は王の家来たちを捕まえて乱暴し、殺してしまった。7そこで、王は怒り、軍隊を送って、この人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。8そして、家来たちに言った。『婚宴の用意はできているが、招いておいた人々は、ふさわしくなかった。9だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい。』10そこで、家来たちは通りに出て行き、見かけた人は善人も悪人も皆集めて来たので、婚宴は客でいっぱいになった。11王が客を見ようと入って来ると、婚礼の礼服を着ていない者が一人いた。12王は、『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言った。この者が黙っていると、13王は側近の者たちに言った。『この男の手足を縛って、外の暗闇にほうり出せ。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。』14招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」

 

 「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない。」というイエスの言葉は何を意味しているのでしょうか。

 この言葉は、王が息子のために開いた「婚礼の宴のたとえ」の結びとして語られました。

 王は最初、人々を盛大な宴会に招待しましたが、招かれた人たちは仕事や自分自身の都合を優先してこれを無視し、さらには使いの者たちを迫害して殺してしまいました。そこで王は、町の大通りに出て見かけた人(善人であれ悪人であれ、あらゆる人)を誰でも招待しました。

 これは、神の救いの招きがすべての人に広く開かれていることを意味しています。しかし、その宴会場に礼服を着ていない客が混じっており、王はその者を縛り上げて外へ追い出しました。

 「選ばれる」とは、単に神から招かれるだけでなく、その招きに対して応答し、ふさわしい心構えや信仰(礼服)をもってそれに向き合う人を指しています。

 「選ばれる人が少ない」という結果は、神が人を選り分けて切り捨てているという意味ではありません。神からの招きに対して、自らの意志でそれを真剣に受け止め、従う生き方を選び取る人が少ないことを指しています。

 「それでは誰が救われるのだろうか」と言ってしまいそうですが、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」というイエスの言葉に信頼したいものです。

 

ベルナルド修道院長教会博士

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=082001