マタイによる福音

 1・16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」24ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおりにした。

 

 天使ガブリエルがマリアに受胎告知をした場面は、多くの画家が描いています。また、マリアの賛歌「マグニフィカート」も様々な作曲家が作曲しています。

 しかし、受胎告知はヨセフにもされたのです。たとえ、マリアがガブリエルのお告げを受けて、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と言ったところで、ヨセフがマリアを迎え入れなければ、イエスは誕生しませんでした。

 また、幼子イエスを虐殺しようとしたヘロデのたくらみを知り、イエスとマリアを連れてエジプトに逃れたのもヨセフでした。

 

 教皇庁典礼秘跡省は2013年5月1日付の「教令」で、ミサの第2、第3、第4奉献文の取り次ぎの祈りに聖ヨセフの名を加えることを定めました。

 教皇フランシスコは12月8日、聖ヨセフがカトリック教会の保護者として宣言されてから150年を迎えるにあたって、2020年12月8日から2021年12月8日を「ヨセフ年」とすることを宣言しました。

 

 聖ヨセフについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

 https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=031901

 

 

 

ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスはユダヤ人たちにお答えになった。〕5・17「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 

 新共同訳では「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」となっていますが、小林稔訳では「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。私のことばを聞いて私を派遣した方〔の言ったことを〕信じる人は永遠の生命(いのち)を持っており、さばきに陥ることなく、死から生命(いのち)へと〔すでに〕移ってしまっている。」となっています。

 イエスが話のはじめに「アーメン、アーメン」と言うのは、ヨハネ福音書に特徴的です。

 オズボーンという神学者は、「『アーメン』はヘブライ語の語根 'mn に由来する。この語根から派生する言葉が宗教的な意味で使われる前には、「抱き上げる」を意味していた。時が経るにつれ、この語根をもつ言葉の多くが、幼児を抱き上げること、そして子育てのすべてのプロセスに用いられた。母の腕に抱かれた子どもは安心感を覚える。自分の子供を抱く母親も安心を感じる。」と言っています。

 安息日に病人をいやしたイエスをめぐる論争の中で、イエスは父なる神との深い信頼関係の中から人びとに語りかけました。

 

 イエスのことばを聴いて、イエスを派遣した方を信じるわたしたちが永遠の生命を持ち、さばきに陥ることなく、死から生命へと移っているとイエスは言います。

 イエスのことばに信頼します。ナウエンと共に祈ります。

 

あなたに向かってわたしは祈ります。

主よ、み旨にかなうときに

神よ、豊かな慈しみのゆえに

わたしに答えて確かな救いをお与えください。

 

恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください

あわれみぶかい主よ、み顔をわたしに向けてください。

あなたの僕にみ顔を隠すことなく……

──詩編69:14, 17, 18

 

ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕 19・25イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

 

 新共同訳では、「この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」と翻訳されています。

 「引き取る」という表現は、受け取って管理下に置くことを意味します。用例としては、修理品を引き取る、荷物を引き取る、子供を引き取るなどが挙げられます。

 新約聖書翻訳委員会訳のヨハネ文書の訳者の小林稔神父は、「この弟子は彼女を自分のところに迎え入れた。」と訳しています。

 カトリック教会はマリアを教会の母と呼びます。イエスの言葉により、この弟子がマリアを自分の母としてお迎えしたためだと思います。

 

 日本の信徒発見の聖母については中央協議会ホームページのジラール神父にあてたプティジャン神父の手紙をごらんください。

https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2016/11/0317our_lady_hours_reading.pdf