ヨハネによる福音
そのとき、イエスはニコデモに言われた。3・7「あなたがたは新たに生まれねばならない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」9するとニコデモは、「どうして、そんなことがありえましょうか」と言った。10イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか。11はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。12わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。13天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。14そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。15それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」
イエスとニコデモとの対話が続きます。
ニコデモはイエスとの対話の場面と、7章で祭司長たちやファリサイ派の人々に「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」語り、19章では、イエスの遺体を取り降ろしを願ったアリマタヤ出身のヨセフと共にイエスの遺体を受け取り、墓に納めました。
夜の闇の中でイエスと出会い、イエスと話すうちにニコデモは光を見いだし、アリマタヤのヨセフと共にひそかにイエスの弟子となったのだと思います。
シエナの聖カタリナについては女子パウロ会ホームページをご覧下さい。
https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=042901
ヨハネによる福音
3・1さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった。2ある夜、イエスのもとに来て言った。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」3イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」4ニコデモは言った。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」5イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。6肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。7『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。8風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」
新共同訳で「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と訳される箇所は新約聖書翻訳委員会訳では「アーメン、アーメン、あなたに言う。人は上から生まれなければ、神の王国を見ることはできない。」となっています。
イエスが言う「新たに」あるいは「上から」生まれるとはどんな意味なのでしょうか。イエスは、「水と霊とによって生まれる」と言い換えています。
それは、洗礼を意味しています。
洗礼者ヨハネはイエスを見たとき「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」と言いました。
イエスご自身の上に霊が降りて留まるのを洗礼者ヨハネは見たのです。イエスは水で洗礼を受け、ご自分の上に降りた霊と同じ霊が降りた人は神の国を見ることができると言っておられるのです。
その人は今までの生き方とは違う生き方を始めるのですか ら、新たに生まれるとも言えます。
アメリカの心理学者ウィリアム・ジェイムズの「二度生まれ」という言葉をイエスの「上から生まれる」ということに重ね合わせて理解することもできるように思います。
ヨハネによる福音20:19-31
19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29 イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
30 このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。31 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。
復活節第2主日は教皇ヨハネ・パウロ二世によって「神のいつくしみの主日」と定められました。
第一朗読は使徒言行録の使徒たちの宣教の場面です。使徒たちの宣教により大勢の人びとが主イエスを信じる様子が描かれています。
第二朗読は黙示録です。主ご自身がヨハネに、「見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ」と命じます。
福音朗読は復活したイエスが使徒トマスに顕現する場面です。
空の墓を発見したのはマグダラのマリアでした。その報告を受けたシモン・ペトロともう一人の弟子は墓に出かけてその事実を確認しました。「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。」(20:8)とありますが、イエスと直接出会ったわけではありません。
復活されたイエスが最初に顕現したのはマグダラのマリアでした。
師であるイエスがユダヤ人の指導者たちによって逮捕され、十字架にかけられたのですから、イエスの弟子たちがユダヤ人たちを恐れて戸に鍵をかけていたことは理解ができます。
ところが、そこにイエスが突然現れて「あなたがたに平和があるように」と言われました。この言葉は日常の挨拶にも使われますが、復活されたイエスに出会う前の弟子たちの恐怖と混乱、心の闇を思うと、特別の意味があると思われます。
イエスを裏切り、ユダヤ人たちの迫害を恐れ、罪意識と恐怖に震える弟子たちにとってそれは文字通り赦しと平和の宣言となりました。その平和はかつてイエスが弟子たちに約束された平和でしたが(14:27)、その意味内容は復活後のイエスの顕現によって弟子たちに初めて明らかになりました。弟子たちはイエスから赦しと平和を得て、赦しと平和の使徒として派遣されます。
その日、他の弟子たちと共にいなかったトマスは、他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言っても、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言います。その八日後、イエスが再び弟子たちに現れ、トマスに「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」というと、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」と信仰告白しました。そのトマスに、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
イエスの復活を信じないトマスの態度についてヘンリ・ナウエンは次のように説明します。
「死は死でしかない。死と死のにおいがするもの、それと関係ありそうなものは何でも、あらゆる犠牲を払ってでも避けるべきだ。死とそれ関係するものすべて──、痛み、病、戦争、抑圧、貧困、飢餓、その他──から遠く離れ、近寄らないほうが身のためだ。」
この態度をナウエンは「ごくふつうの、誰もが選ぶ人間の態度」だと言います。弟子仲間の言葉を受け入れず、イエスの復活を信じないトマスにイエスが現れ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言ったとき、トマスの中に、生きることへの新しい確信、新しい喜び、新しいいのち、新しい霊の力が生まれました。トマスは自分のいのちをかけてイエス・キリストを宣べ伝える使徒となりました。
ひとこと
2025年4月26日(土)午前10時(日本時間同日午後5時)、サンピエトロ広場で、ローマ教皇フランシスコの葬儀ミサがささげられました。
10年前の2015年を故教皇フランシスコは「いつくしみの特別聖年」とし、その祈りを定めました。無慈悲な攻撃の応酬に明け暮れる世界に神のいつくしみが与えられるよう教皇と共に祈りましょう。
教皇フランシスコ「いつくしみの特別聖年のための祈り」
主イエス・キリスト、あなたは、わたしたちが天の御父のようにいつくしみ深い者となるよう教え、あなたを見る者は御父を見る、と仰せになりました。み顔を示してくださればわたしたちは救われます。
あなたの愛に満ちたまなざしによって、ザアカイとマタイは富への執着から解き放たれ、姦通の女とマグダラのマリアは、この世のものだけに幸せを求めることから解放されました。
ペトロはあなたを裏切った後に涙を流し、悔い改めた盗人には楽園が約束されました。
あなたはサマリアの女に、「もしあなたが神のたまものを知っていたなら」と語られました。このことばを、わたしたち一人ひとりに向けられたことばとして聞かせてください。
あなたは、目に見えない御父の、目に見えるみ顔です。何よりもゆるしといつくしみによって、自らの力を示される神のみ顔です。
教会がこの世において、復活し栄光に満ちておられる主のみ顔となりますように。
あなたは、ご自分に仕える者が弱さを身にまとい、無知と過ちの闇の中を歩む人々を、心から思いやることができるようお望みになりました。
これら仕える者に出会うすべての人が、神から必要とされ、愛され、ゆるされていると感じることができますように。
あなたの霊を送り、わたしたち一人ひとりに油を注ぎ、聖なるものとしてください。
神のいつくしみの聖なる年が、主の恵みに満ちた一年となり、あなたの教会が新たな熱意をもって、貧しい人によい知らせをもたらし、捕らわれ、抑圧されている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げることができますように。
この祈りを、いつくしみの母であるマリアの取り次ぎによって、御父と聖霊とともに世々に生き、治めておられるあなたにおささげいたします。アーメン。