ヨハネによる福音
 〔イエスが五千人の人々に食べ物をお与えになった後、弟子たちはイエスが湖の上を歩いておられるのを見た。〕6・22その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。23ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 復活節第3週日はヨハネ6章のイエスのパンの講話が継続して朗読されます。
 イエスの言葉は小林訳では「アーメン、アーメン、あなたがたに言う。あなたがたが私を求めるのは、徴(しるし)を見たからではなく、パンを食べて満腹したからである。亡くなっていく食べ物のために行動するのはやめて、永遠の生命(いのち)にまで至る食べ物のために〔行動しなさい〕。それは、〔将来〕人の子があなたがたに与えることになるものである。その人〔の子〕は父である神が確証したからである」。となっています。
 イエスはサマリアの女性との会話でも、「この水を飲むものは皆、再び渇くであろう。だが私が与えることになる水を飲むなら、その人は永遠に渇くことがなく、私が与えることになる水は、彼のうちでほとばしり出て泉となり、永遠の生命(いのち)に至ることだろう」(ヨハネ4:13-14)とイエスは言います。
 日常生活で飲む水、食べるパンとは異なる飲み物、食べ物があり、それを飲んだり食べたりする者は永遠の生命(いのち)に至るとイエスは言うのです。
 ヨハネ6章のパンの講話では、イエスと群衆、弟子たちの隔たりが次第に明らかになり、弟子の多くもイエスから離れることになります。

 

 イエスを信じる者たちは、イエスの言葉に従って主の日に共に集まり、イエスの体をいただくことによって、永遠のいのちに至ると信じ、毎日の生活を生き抜く力をえます。
 

ヨハネによる福音21:1-14
 1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
《15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。》

 第一朗読は使徒言行録です。「あの名によって教えてはならない」という脅しに、ひるむことなく弟子たちが宣教し、逮捕され、再び脅された「使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にされたことを喜び」ました。復活したイエスとの出会いにより、使徒たちに死や刑罰を怖れない勇気が湧いてきたのでした。

 復活節第二主日から第六主日まで、第二朗読は黙示録です。ヨハネは幻視の中で、復活したイエスの栄光を見ます。「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように。」という賛美は、ミサの時の、聖体拝領前の司祭の「いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、世界に平和をお与えください。あなたのあわれみに支えられて、罪から解放されて、すべての困難に打ち勝つことができますように。私たちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいます。」という祈りに対する、会衆の応唱「国と力と栄光は永遠にあなたのもの」に引き継がれています。

 復活の主日の福音では、マグダラのマリアがイエスの墓が空になっているのを二人の弟子に伝えたことが朗読されました。その後イエスは弟子たちに三度にわたって顕現します。最初は、ユダヤ人を恐れて家に閉じこもる弟子たちへの顕現、二度目は、先週の復活節第二主日の福音で朗読された、最初の顕現の時に居合わせなかったトマスと他の弟子たちへの顕現、三度目が本日、復活節第三主日の福音朗読箇所のティベリアス湖で漁をする弟子たちへの顕現です。
 
 本日の朗読箇所は、三つの部分(2-6節、7-9節、10-13節)に分かれ、四つのテーマが関連しつつ展開されていると言われます。第一のテーマはシモン・ペトロの態度、第二はイエスに対する弟子たちの態度、第三は「食べるもの」についてのやり取り、第四は「網」に起こる変化です。

シモン・ペトロ
 「わたしは漁に行く」とペトロは言います。ここで使われている動詞はもともと「立ち去る」を意味しています。ペトロは、イエスとの生活を去り、漁師としてのなりわいの生活に「戻る」と決意をしたようにも受け止められます。ペトロは他の二人の弟子とともに漁に出かけますが、その日は何もとれませんでした。次の日の漁の時、岸に立っている人が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」というので、網を打ってみると、網を引き上げることができないほど多くの魚が取れました。その時、イエスの愛しておられた弟子が「主だ」というと、ペトロは上着をまとって湖に飛び込み、イエスのもとに行きました。
 このペトロの態度の変化はまことに鮮やかですが、それは生きておられるイエスとの出会いの喜びに満たされています。

他の弟子たち
 最初、弟子たちは湖畔に立っておられるイエスに気づきませんでした。イエスの愛する弟子が、最初に「主だ」と気づいたのは、かつてゲネザレト湖でイエスの言葉に従って網を打った時に起こった出来事を思い出したのかも知れません(ルカ5:1-11)。その後、弟子たちは皆、主がおられることが分かりました。
 弟子たちは、復活のイエスが共におられても気づくことができず、イエスのことばに従って行動したときに初めてイエスの存在に気づくのです。

イエスが準備する食事
 イエスが弟子たちに与えた食事のことも興味深いです。弟子たちが陸に上がってきたときにはすでに炭火がおこしてあり、その上に魚がすでにのせてありました。イエスは弟子にとれた魚を何匹か持ってくるように命じ、それを炭火の上の魚に加え、「朝の食事をしなさい」と言われます。弟子たちが自分たちの働きの実りを持ってくる前に、すでにイエスは弟子たちのための食事を用意して待っておられたのです。
 イエスが「来て、パンを取って弟子たちに与え、……魚も同じようにされた」という描写は、感謝の祭儀(ミサ)典礼を暗示させます。

網
 岸辺に立っている人から「舟の右側に網を打ちなさい」と言われ、その言葉に従って網を打つと思わぬ大漁となりました。ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、網の中は153匹の大きな魚で一杯でしたが、網が破れることはありませんでした。153という数字が何を象徴しているのかははっきりしませんが、当時知られていたすべての魚の種類だという解釈もあります。
 イエスと弟子たちの会食は、かつてティベリアス湖畔でイエスがパンと魚を祝福して人々に食べさせたことを思い起こさせます(ヨハネ6章)。
 
ひとこと

 ポーランドの作家ヘンリク・シェンキェヴィチが描いた歴史小説『クォ・ヴァディス』をご存じでしょうか。『クォ・ヴァディス:ネロの時代の物語』は、西暦1世紀のローマ帝国を舞台とした歴史小説です。
 暴君ネロはローマでキリスト教徒への残酷な迫害をしていました。当時ペトロはローマにいましたが、周囲の人々の強い願いを受けローマを離れる決意をします。夜中に出発してアッピア街道を下っていたペトロは、夜明けの光の中で、イエス・キリストが自分のローマの方向に向かってくるのを見て、驚き、ひざまずき、「クォ・ヴァディス・ドミネ(主よ、どこに行かれるのですか)」と尋ねました。すると、イエスは、「お前が、私の民を見捨てるのなら、もう一度十字架にかかるためにローマに行く。」と答えました。
 ペトロはしばらく道に倒れていましたが、やがて、起き上がり来た道を引き返しまし、ローマで捕らえられ、十字架刑で殉教しました。
 いよいよ十字架にかけられる時に、ペトロは「自分は三度もイエスのことを知らないといったのだから、イエスと同じ仕方で十字架にかかるわけにはいかない。逆さまに十字架に付けてくれ」と言い、逆さに十字架に付けられ殉教したと言われています。

ひとこと
 先週もお話ししましたが、教皇フランシスコの葬儀ミサの福音の朗読は、イエスがシモン・ペトロに、三度「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問い、最後に「わたしに従いなさい」と命じた箇所でした。イエスに付き従うことは、じぶんの十字架を背負い、傷つくことを受け入れることです。
 教皇フランシスコは、アッシジのフランシスコを模範として、徹底的にイエスの教えに忠実であろうとした方でした。神がフランシスコをわたしたちの教皇としてお与えくださったことを感謝すると共に、フランシスコが神のもとで安らかに憩われますよう祈りましょう。

 

ヨハネによる福音
〔そのとき、イエスはトマスに〕14・6言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」8フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。10わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。11わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。12はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。13わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

 イエスの告別説教の場面で、イエスが弟子たちに、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」と言うと、フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と返します。フィリッポにイエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ。」と言います。
 神がどのような方なのか、ユダヤ人の律法学者やファリサイ派の人々が思い描くイメージとイエスの言われることは全く異なります。
 神は直接的な仕方で見ることはできません。イエスこそ神の見えるしるしでした。だからこそ「わたしを見た者は、父を見たのだ。」とイエスは言ったのです。
 スキレベークスという神学者が『キリスト・神との出会いの秘跡』という本を書いています。
 イエス・キリストご自身が、神の現れ、原秘跡ということができます。

 聖フィリッポ・聖ヤコブ使徒については女子パウロ会ホームページをご覧下さい。
https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=050301