ヨハネによる福音
 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕6・44「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。45預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。46父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。47はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。48わたしは命のパンである。49あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 今日の福音の直前の6章41節から43節が省略されています。
 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである』」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。
 イエスの話を聞いている群衆は、目の前にいるイエスはナザレのイエスであり、その両親も分かっていると思い込んでいますから、イエスの言葉を理解できないのも無理はありません。
 「つぶやく」は理解できないだけでなく、不満をぶつけあうということではないでしょうか。
 イエスは、「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」と言います。
 洗礼を受ける人が、「導かれて来た」と言うのを聞くことがあります。

 父である神がその方をイエスに引き寄せてくださったのだと思います。

ヨハネによる福音
 〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕6・35「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

 ヨハネ6章のパンについてのイエスと群衆とのやり取りは、互いに何度も同じことを言っているように思えますが、イエスの話の聞き手は、最終的にはイエスのもとに留まるか、イエスから離れ去るかの決断をせざるを得なくなります。
 イエスの論法を、恩師のネメシェギ神父は「らせん論法」、私の指導司祭だった沢田和夫神父は「波打ち際の論法」と言っていたことを覚えています。
 小林訳では、39-40節は「〔父が〕私に与えて下さっているものを皆、私が〔一人も〕失うことなく、終わりの日[に]甦らせること、これが私を派遣した方の意思(おもい)である。つまり子を見て彼を信じる人が皆、永遠の生命(いのち)を持ち、私が彼を終わりの日[に]甦らせること、これが私の父の意思(おもい)なのである」となっています。
 このイエスの言葉を受け入れるためには、イエスを遣わしたのは父である神であることを認める必要がありますが、聞き手のユダヤ人たちにはそのことは思いも浮かばなかったと思います。

ヨハネによる福音
 〔そのとき、群衆はイエスに言った。〕6・30「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。31わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
 34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 イエスがパン増やしのしるしを行ったとき、パンを食べて満腹した群衆は、労せずパンを食べたいと思ってイエスの後を付けてきたのだと思います。
 群衆は、先祖が荒れ野でマンナを食べたように、パンをいつも自分たちに与えてくれとイエスに要求しているのです。
 イエスは、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」
 日常生活で食べるパンのことしか思い浮かばない群衆とイエスとの対話のずれが現れます。