ヨハネによる福音
 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・27「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。28『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。29事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。30もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。31わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。」

 「わたしは、平和を残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」という言葉を、ミサの聖体拝領の直前に教会に平和を願う祈りとして司祭が唱えます。
 キリストの平和は、世が与える平和とは違います。
 世が与える平和は、武力によって均衡を保つような平和であり、いつその均衡が破られるか分かりません。
 イエスの唯一の命令、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」を守ることによって、訪れる平和こそ、キリストの平和です。
 

 教皇レオ十四世は最初の祝福の言葉で、

「あなたがたに平和があるように。愛する兄弟姉妹の皆さん。これが、神の民のためにいのちを与えた、よき牧者である、復活したキリストの最初の挨拶です。わたしもこう望みます。この平和の挨拶が皆さんの心に入りますように。皆さんの家庭に、どこにいたとしてもすべての人に、すべての民族に、すべての地に届きますように。あなたがたに平和があるように。これが復活したキリストの平和です。謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除く平和です。この平和は神から来るものです。神はわたしたち皆を無条件で愛してくださいます。」

 と話しました。

 

謙遜で、忍耐強い、武器のない平和、武器を取り除くキリストの平和がわたしたちに与えられますように。

ヨハネによる福音
 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕14・21「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」22イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 25わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。26しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」とイエスは言います。
 しかし、イエスの弟子たちが、イエスの掟を受け入れて、守ることは簡単なことではありません。
 復活のイエスに出会い、迫害という状況の中で、弁護者である聖霊の力によって、弟子たちはイエスが話したことを想い起こし、イエスの掟が何であったかが分かり、その掟を守ることができるようになります。
 

ヨハネによる福音書 13:31-33a, 34-35

 31 さて、ユダが〔晩さんの広間から〕出て行くと、イエスは言われた。
 「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。33a 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。34 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

 

 復活節第2主日から第6主日までは第1朗読が使徒言行録、第2朗読が黙示録、福音はヨハネによる福音になっています。復活節第5主日のテーマは、「新しい掟」ということができます。

 

 第1朗読の使徒言行録はパウロの「第一伝道旅行」の帰り道で起こった出来事が語られます。パウロとバルナバは自分たちが宣教した町を引き返しながら「わたしたちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくてはならない」と人びとに告げ、励まします。また、教会ごとに長老を任命し、主に委ねます。二人は神が自分たちと共にいて、その栄光を現してくだり、異邦人に信仰の門を開いてくださったと報告します。

 

 第2朗読のヨハネの黙示録は、ローマ帝国の迫害で苦しむ教会の人びとに、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」と告げ、勇気づけます。

 

 聖書と典礼の福音朗読の解説にあるように毎年復活節第5主日の福音は、同じ箇所、イエスの告別説教の中の「新しい掟」を朗読します。

 

 本日の朗読箇所の直前30節では、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。」と述べられます。ユダはイエスと同じ会食の席について、イエスご自身からパンを与えられましたが、夜の暗闇に呑み込まれてしまいます。

 その後イエスは「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった」と語り出します。イエスの受難は神と人の子イエスの栄光となります。

 弟子の裏切りと、十字架刑がなぜ神とイエスとの栄光となるのでしょうか。わたしは、人間を呑み込む闇が神の栄光を阻止できなかったからではないかと思います。

 神のいつくしみと赦しは、人間の裏切りとイエスをなきものにしようというたくらみに打ち勝ち、神とイエスの栄光をこの世にかがやかすからです。

 イエスは弟子に別れを告げると共に、「新しい掟」を与えます。

 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」という掟は旧約聖書にすでにある掟です(レビ記19:18)。

 するとイエスの掟の新しさはどこにあるのでしょうか。それは「私があなたがたを愛したように」ということにあるようです。

 「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(15:13)とイエスはいいます。十字架上でご自分を裏切る人びとを友と呼び、ゆるし、そのために自分の命を捨てるイエスの愛は、これまでどの様な人間も体験したことのない愛です。

 だからイエスは「新しい掟」といわれたのです。ギリシャ語には「新しい」という形容詞は二つあります。一つはネオス、もう一つはカイノスです。ネオスは英語で言えば「ニュー」で古びていく新しさを意味します。私たちの持ち物は新品を買っても、だんだん古びていき最後には使い物にならなくなります。これに対してカイノスの新しさは、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかった」(1コリ2:9)ような新しさです。この新しさは、決して古びることがありません。

 掟、命令という言葉は単数です。イエスは唯一の決して古びることのない掟を弟子に与えました。

 さらに、第二朗読の「見よ、わたしは万物を新しくする」の新しくも、カイノスです。

 

 弟子たちは、復活されたイエスと出会いイエスにゆるされることによって、イエスの愛がどれほど深く広いものであるかを、体験しました。

 イエスは、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じました。しかし、イエスのように人を愛することことが私たちにできるでしょうか。自分を省みると、とてもできることではないと気落ちしてしまいます。

 イエスは、かつて「だれが救われるのだろうか」という弟子たちに「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われました。

イエスの唯一の命令は私たちの能力や努力によってではなく、イエスの霊の力、イエスの愛、イエスのゆるしの力によって果たすことができるとイエスは約束しておられるように思います。

 

 サタン、闇、悪、死、人間の裏切りは決して最後の答えではありません。神の栄光、神の光、神のいのち、神のゆるし、ご自分の愛が唯一の最後の答えだと宣言するイエスに聴き従って生きることができますように。

 

 教皇レオ14世は、「キリストの平和は、紛争の後の死の沈黙でも、強制の結果でもありません。それは人間を見つめ、いのちを取り戻させる恵みです」と話し、キリストが与える平和、和解、赦し、再出発の勇気のために祈るよう招かれました。教皇と共に平和を祈りましょう。