マタイによる福音

11・25そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。26そうです、父よ、これは御心に適うことでした。27すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。」

 

 イエスは、ガリラヤ湖畔の町の人々が回心しないことを叱った後、突然「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」と叫びます。

 「これらのこと」とは「天の国の秘密」ではないでしょうか。幼子とは、教養がなくても素直にイエスの教えを受け入れ、イエスに付き従う人のことです。

 

 日本では未だに学歴神話がありますが、私たちがこの世の旅路を終えて神の前に立つとき、神は私たちに学歴や財産などではなく、神が私を愛したように、私が隣人を愛したかと訊くのではないでしょうか。

マタイによる福音

 〔そのとき、〕11・20イエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。21「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。22しかし、言っておく。裁きの日にはティルスやシドンの方が、お前たちよりまだ軽い罰で済む。23また、カファルナウム、お前は、天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。24しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済むのである。」

 

 ガリラヤ湖畔で始まったイエスの宣教は、順調ではありませんでした。イエスが行う奇跡はもてはやされましたが、イエスの説く福音を受け入れ、神に立ち帰る人は希有だったように思います。

 イエスのなさる不思議なわざはイエスの言葉の真正性を明かすものです。イエスの不思議なわざに好奇心を持っても、イエスの言葉によって回心しない人々をイエスは厳しく糾弾します。

 

 聖ボナヴェントゥラ司教については女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

 『カトリック教会のカテキズム』はボナヴェントゥラと同時代に生きたトマス・アクィナスの著作からの引用は頻繁ですが、中世哲学でトマス・アクィナスと双璧をなすボナヴェントゥラの引用はあまりないのはどうしてでしょうか。

 

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=071501

 

マタイによる福音

〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕10・34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。36こうして、自分の家族の者が敵となる。

 37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

 11・1イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 

 ヨハネ福音書で、イエスは「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」と弟子に約束しますが、続けて「わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。」とも言います。

 世が与える平和は、とりあえずは争いのないことであり、不和が生じた場合は交渉で調整しますが、たいがいは強い者が主張することを弱い者が受け入れることによって保たれるように思います。

 根本的自己決断(fudamental option)という言葉があります。人は神に対して根本的に肯定的な立場をとるか、否定的な立場をとるかの選択をするとする考え方です。

 イエスが「平和ではなく、剣をもたらすために来た。わたしは敵対させるために来た」というのは、ある人がイエスに付き従うという根本的自己決断をした場合、それとは相容れないことを拒絶することです。

 「キリストにはかえられません」という讃美歌があります。

 

キリストにはかえられません

 世のたからも また富も

 このお方が わたしに

 代わって死んだゆえです

 

 世の楽しみよ 去れ

 世の誉れよ 行け

 キリストにはかえられません

 世のなにものも