マタイによる福音

〔そのとき、イエスは〕13・54故郷にお帰りになった。会堂 で教えておられると、人々は驚いて言った。「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。55この人は大工の息子ではないか。母親はマリアといい、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。56姉妹たちは皆、我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて、いったいどこから得たのだろう。」57このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」と言い、58人々が不信仰だったので、そこではあまり奇跡をなさらなかった。

 

 イエス時代のユダヤ教の会堂(シナゴーグ)では、誰でも自由に教えることができたわけではありません。会堂では律法学者やファリサイ派の人々が律法を教える役割を果たしました。彼らは聖書を読み、解釈し、説教をしました。

 イエスが会堂で教えることができたのは会堂長がイエスにその資格があると認めたからにほかなりません。

 イエスの言葉を聞いた故郷の人々は、「この人は、このような知恵と奇跡を行う力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。」といぶかしがります。

 スコトーマという言葉をご存じでしょうか? 直訳すると「視覚的な盲点」を意味します。もともとは眼科で使う言葉でしたが、心理的な盲点や認知的な盲点のことです。

 イエスの故郷の人々は、自分たちが慣れ親しんでいたイエスのイメージに閉じこもった位置からイエスの言動を見聞きしているので、いぶかしがらざるを得ないのです。

 イエスは、そのような人を前にして「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。」とイザヤの預言を引用しています。

 

 聖アルフォンソリゴリについては、女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=080101

マタイによる福音

 12・1そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。2ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。3そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。4神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。5安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。6言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。7もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。8人の子は安息日の主なのである。」

 

 安息日に麦の穂を摘むことが禁じられているのは、それが「収穫」や「脱穀」という労働とみなされるためです。安息日は、神が天地創造を終え休まれた日であり、労働を休むべき日とされています。そのため、麦の穂を摘む行為は、安息日の規定に反すると考えられました。

 

 イエスの一行はいわば乞食の群れのようでなかったかと思います。イエスの一行は絶えず旅をしていて、一定の収入を得ることはできないし、その日暮らしのような毎日だったと思います。

 

 弟子たちが安息日に麦の穂を摘んだのは、空腹に耐えられなかったからです。その一行を見てイエスに「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」というファリサイ派の人は、飢えた人に同情するのではなく、律法の規程違反をしていることを咎めているのです。

 

 人のいのちを守ると律法を守るのはどちらが大切かとイエスは返します。

マタイによる福音

〔そのとき、イエスは言われた。〕11・28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 軛(くびき)という言葉は馬や牛が農作業や移動で使われなくなった時代には死語に近いと思います。軛は頸木であり、馬や牛の頸にかけて鋤や鍬、あるいは車を曳かせる道具です。一頭立てと二頭立て用があったようで、ここでは軛の片方の荷をイエスが担っているのでもう片方の荷は軽くなるとイエスは言っているように思います。

 重荷を負って喘ぐとき、その隣でイエスが重荷を負って共に歩んでいると分かるなら、慰めとやすらぎをえることができます。