ヨハネによる福音
20・1週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。2そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」
11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。
『ヘンリ・ナウエンと読む福音書』(あめんどう 2008年)の中に、マグダラのマリアについて述べられていますので引用して、ご紹介します。
マグダラのマリア
その見知らぬ人は、最も親密な友として自らを示しました。マグダラのマリアは、その見知らぬ人が自分の名を呼んだとき、自分の主であることに気づきました。この気づきは、単によく知っている人を認めるということより、はるかに大きな意味がありました。それは何年もの間、毎日の暮らしの中で耳を傾け、話し、食事し、喜びやつらさを分かち合って深まってきた、いく久しい親密な関係の再発見でした。
名前で呼ばれること
今日は、イエスとマグダラのマリアが出会った場面の聖書朗読に耳を傾けました。二人の互いの間には愛がありました。イエスは言いました。「マリア」。彼女はイエスに気づき、こう言います。「ラボニ(先生)」(ヨハネ20・16)。この単純で、深い、心動かされる物語は、「知って欲しい」という願いと同時に、そのことへの恐れがあることに気づきます。イエスがマリアを名前で呼んだとき、誰もが知っている名を口にした以上の意味が込められています。彼女の全存在に呼びかけたのです。
イエスはマリアを知っています。彼女のこれまでの歩みを知っています。すなわち、その罪と美徳、恐れと愛、苦悶と希望を知っています。心の隅々まで知っています。知らないものは何もありません。マリアが自らを知る以上に、さらに深く、さらに完全に知っておられます。ですから、イエスからその名が発せられたことは、とても深遠な出来事なのです。マリアは、はつとして気づきます。自分を真に知っている存在が、自分を真に愛してくれている、と。
頭からいつも去らない思いがあります。それは、最も深く隠し持っている私の考えや感情を含め、もし人が私の内のあらゆる部分を知ったとして、それでも本当に私を愛してくれるだろうか、ということです。自分が愛されているのは、まだ知られていない部分があるためではないかと、ときどき疑います。私に注がれる愛は、条件つきではないかと恐れ「もし皆が本当の私を知ったら、愛してくれないだろう」と自分に言い聞かせます。しかし、イエスがマリアの名を呼んだとき、その全存在に呼びかけました。そして気づきます。自分を最も深く知っているお方は、遠ざかるのでなく、近づいて来て、無条件の愛を差し出すお方なのだ、と。
マリアの応答は「ラボニ」、つまり「先生」でした。ここから、マリアはイエスを自分の真の師としたいこと、自分の全存在の師としたいこと、すなわち、思考と感情、情熱と希望、最も深く隠し持っている感情においてさえも師としたいという願望が聞き取れます。彼女がこう語っているのが聞こえます「こんなにも私のすべてを知ってくださる方よ。来てくださり、私の師であってください。私の中の何一つ、あなたから離れたままでいたくありません。心の最も深いところに触れてください。私があなただけのものになるために」。
この出会いの瞬間が、どんなにか大きないやしをもたらしたか分かります。マリアは即座に、自分はことごとく知られ、この上なく愛されていると感じました。もはや知られても大丈夫な部分と、隠したほうがよさそうな部分の区別は存在しません。すべてがイエスの目にさらされながら、その日は放しと憐れみと愛、そして無条件の受容の目であることを知ります。
ここに、この単純素朴な出会いに、真の信仰的な瞬間を見ることができます。すべての恐れは消え、すべてが愛になりました。そして、次のイエスの言葉以上に、それをよく言い表したものはありません。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。ここにはもはや、イエスとイエスの愛する人々との違いはありません。イエスが楽しんでおられる御父との親密さの中に、人々を含めています。同じ家族に属し、神にあって同じ命を共有しています。
完全に知られ、しかも完全に愛されるとは何という喜び! イエスを通して神のものとされ、そうあり続けることができ、しかも完全に守られ、完全に自由でもある喜び。