マタイによる福音

〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕13・47「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。48網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。49世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、50燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。

 51あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。52そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 53イエスはこれらのたとえを語り終えると、そこを去った。

 

 イエスは、世の終わりに、「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込む」と言います。

 このたとえによると、私たちはいわば網に引き上げられた獲物です。獲物をより分けるのは天使です。獲物である私たちは、天使がより分けるまで、自分や仲間が正しい者なのか悪い者なのか知ることができないのです。

 このたとえは、初代教会の中で起こった抗争が背景になっているように思います。

 それだけでなく、現在進行形で生じている教会内部の意見の対立や、相互の嫌悪が表立つとき、イエスのこのたとえを思い出す必要があると思います。

 

 ロヨラの聖イグナチオに関しては、女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=073101

 

マタイによる福音

〔そのとき、イエスは人々に言われた。〕13・44「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。

 45また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。46高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。

 

 アンパンマーチの歌い出しは「何のために生まれて 何をして生きる」です。自分が生まれた理由や、人生の目標を見つけることは、たやすいことではありません。見つけたと思ったことが、ただの思い込みだったりすることもあります。また、生きる意味が全く分からなくなり、うつうつと過ごす人もいます。

 イエスは、天の国を見つけた人は、宝を見つけた人になぞらえていま。本当にそれを実けることができれば「そうだ うれしんだ 生きるよろこび」と歌うことになると思います。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕10・38イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。40マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。42しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」

 

 イエスは、マルタ、マリア、ラザロの一家と緊密な関係でした。

 イエスが彼らの家を訪れたとき、「マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いてい」ましたが、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入ってい」ました。

客人を「もてなす」(歓待する)ことは家の主人の役割です。マルタはもてなすためにせわしなく働き、いらだっていました。

 イエスは、「必要なことはただ一つだけ」だと言います。それはご自分を主として迎えることです。

 マリアは何もしていないとマルタは言いますが、イエスを主としてお迎えし、イエスの言葉を聴いていました。

 

 哲学者の鷲田清一氏は、『聴くことの力』で「聴く」ことを、無条件のプレゼンスと言っています。マリアは、イエスの前で、自分を差し出し、イエスの言葉の受け手となっていたのです。

 

 聖マルタ、聖マリア、聖ラザロについては、女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/mem0729.php