マタイによる福音

14・13イエスは洗礼者ヨハネが死んだことを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。14イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。15夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」16イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」17弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」18イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、19群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。20すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。21食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

 

 洗礼者ヨハネが残忍な仕方で虐殺されたことヨハネの弟子たちから聞いたイエスは、ひとりで人里離れた所に退かれました。ところがその噂を聞きつけた群衆が徒歩でイエスのあとを追います。それを見たイエスは、彼らに対してはらわたのちぎれる思いに駆られ、彼らの中の病人を癒されます。

 イエスはひとりで人里離れた所に退かれたのですが、いつの間にか弟子たちも同行していました。

 夕暮れになったので弟子たちが群衆を解散させ、近隣の村で食べ物を調達させてはどうかと提案すると、イエスは「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」と命じました。

 「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」と弟子たちがいうと、イエスは「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちに渡し、弟子たちがそのパンを群衆に与えると、すべての人が食べて満腹しました。

 この物語を読むたびに、イエスのこの奇跡は、パンを増やす奇跡ではなく、群衆に分け合う心を生む奇跡だったのではないかと思います。

 わざわざ、遠路はるばるイエスを追いかけた群衆は弁当の用意もしていたのだと思います。イエスが自分の持っているものすべてをささげ賛美の祈りを唱えた時、群衆も隣の人と自分の弁当を分かち合おうという気持ちになったのではないでしょうか。

 

 聖ヨハネ・マリア・ビアンネについては女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=080401

 

ルカによる福音12:13-21

 

 13〔そのとき、〕群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 

 今日のみことばはいずれもわたしたちの人生に関わるものです。

 

 第一朗読は「コヘレトの言葉」の冒頭の言葉です。以前は「伝道の書」と呼ばれていました。

 「コヘレトは言う。なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ。まことに、人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう。一生、人の務めは痛みと悩み。夜も心は休まらない。これまた、実に空しいことだ。」

 すべては空しいという思いは、文化と時代を超えた普遍性があるように思います。

 コヘレトは、「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。『自分の魂に快いものを欠いてまで、誰のために労苦するのか』と思いもしない。これまた空しく、不幸なことだ。」とも言います。

 自分の持っているものを他の人と分け合わず、蓄財に励むこの男は、イエスが語るたとえ話に出てくる男の生き方そのものではないでしょうか。

 自分だけよければ良いという人は場所と時代を超えて繰り返し現れます。

 

 第二朗読で、「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい」とパウロは警告します。地上のものとはパウロによれば、「みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲」のことです。このパウロの警告もイエスのたとえに通じています。

 

 福音では、エルサレムへの旅の途上で、突然群衆の一人が財産問題についてイエスに相談を持ちかけます。遺産に関する規定がモーセ五書にあるため、財産分割や相続についてもめ事が起こった場合、当事者は会堂長や律法の専門家に相談を持ちかけることがあったようです。

 イエスは彼の頼みを断り、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と皆に諭し、自分の財産をためるために大きな倉を建てようとする金持ちのたとえを語ります。

 このたとえの終わりで、イエスは「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」と結論づけます。

 人生は束の間なのに、他の人々を顧みず、ひたすら自分の快楽を求めて蓄財に励んでも、死んだらすべては空しくなります。とはいえ、金持ちで、不自由なく暮らしている人は、イエスのたとえを聞いたとしても、気にも留めないかも知れません。

 

ひとこと

 NHKこころの時代で、旧約聖書「コヘレトの言葉」を巡って四週にわたり、詩人、随筆家の若松英輔(わかまつえいすけ)さんと「コヘレトの言葉」の研究者、翻訳者の東京神学大学教授の小友聡(おともさとし)さんが対話されていました。

 

 小友さんは、新共同訳聖書で「空しい」と訳されているヘブライ語の「へベル」を「束の間」と捉え、その束の間である人生をどう生きるかを「コヘレトの言葉」は教えているといいます。

 コヘレトは、一方で「人生はむなしい」といい、他方では「人生には意味がある」、「神をおそれよ」と矛盾することを言います。小友さんは「コヘレトの言葉」は矛盾ではなく逆転だと分かったと言います。

 「人生は短い、だから生きていても意味がない」ではなく、明日はどうなるかわからない、だからこそ、今日を生きる意味があるとコヘレトは教えるというのです。

 

 コヘレトのその教えは先行きが不透明で、想定外の出来事に揺さぶられて生きるわたしたちに強く響きます。

 「明日はどうなるかわからない、だからこそ、今日を生きる意味がある」とコヘレトは言うのです。

 小友さんの対談者の若松英輔さんは、対談のおわりがけに、次のように言います。

 

 いま、私たちは危機の時代を生きています。しかし、旧約聖書を読むと、過去にも絶望するほかない日々がこの世界を飲み込んだ時期があることがわかります。旧約聖書に登場する人びとは、番組で、小友さんが幾度も繰り返されたように、「それでも生きる」ことを強く促すのです。

 

 2022年2月24日にロシアはウクライナに軍事侵攻を開始しました。2023年10月7日ガザ地区を支配していたハマスがイスラエルを攻撃を攻撃し、人質を取ったことから、イスラエルの激しいガザ攻撃が継続し、ガザにいる子どもたちには餓死の危険が迫っていると報じられます。

 

 こうした危機の時代に「それでも生きる」ためには何を頼りにしたら良いのでしょうか。

 

 「生きよ。種を蒔け。束の間だけれども、生きて種を蒔け。生きれば、いつか必ず平和の時が来る」というコヘレトの言葉を頼りにしようと小友先生は言います。

 

 2025年の通常聖年のテーマは「希望の巡礼者」です。希望が見いだせないときにこそ、「希望は欺かない」ことを信じて祈りましょう。

マタイによる福音

 14・1そのころ、領主ヘロデはイエスの評判を聞き、2家来たちにこう言った。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」3実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。4ヨハネが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。5ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたが、民衆を恐れた。人々がヨハネを預言者と思っていたからである。6ところが、ヘロデの誕生日にヘロディアの娘が、皆の前で踊りをおどり、ヘロデを喜ばせた。7それで彼は娘に、「願うものは何でもやろう」と誓って約束した。8すると、娘は母親に唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言った。9王は心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、それを与えるように命じ、10人を遣わして、牢の中でヨハネの首をはねさせた。11その首は盆に載せて運ばれ、少女に渡り、少女はそれを母親に持って行った。12それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。

 

 ヘロディアが娘のサロメに洗礼者ヨハネの首を要求させた理由は、彼に対する深い個人的な恨みと復讐心に他なりません。

 ヘロディアは、夫であるヘロデ・アンティパスの異母兄弟であるヘロデ・フィリポの妻でした。しかし、彼女はフィリポを捨てて、その兄弟であるヘロデ・アンティパスと結婚しました。これは、当時のユダヤの律法(レビ記18章16節など)で近親相姦にあたり、許されない行為でした。

 洗礼者ヨハネは、このヘロデ・アンティパスとヘロディアの結婚を公然と「律法に反する」と批判しました。

ヘロディアは、自分の不法な結婚を公に非難されたことに激しい怒りと恨みを抱いていました。彼女はヨハネを殺したいとまで願っていましたが、夫であるヘロデ・アンティパスがヨハネを「正しい聖なる人」と認め、人々がヨハネを預言者として尊敬していたため、簡単には手が出せませんでした。ヘロデ自身もヨハネを恐れ、保護しようとしていた側面があります。

 ところが、ヘロデ・アンティパスの誕生日の祝宴で、ヘロディアの娘サロメが舞踏を披露し、ヘロデを大変喜ばせました。ヘロデは喜びのあまり、サロメに「ほしいものは何でも与えよう。国の半分でも」と誓いました。

 サロメがヘロディアに相談すると、ヘロディアは娘に迷わず「洗礼者ヨハネの首を盆に載せてください」と言うように唆しました。これは、ヘロディアが長年抱いていたヨハネへの憎悪と、彼を排除したいという強い願望が、この好機に乗じて実現できると考えたためです。

 

 洗礼者ヨハネは酒宴の余興のほうびに首を切られて盆に載せられて最後を遂げましたが、民に悔い改めを告げ知らせる預言者として生き抜いた人でした。