マタイによる福音

 〔そのとき、〕19・23イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。24重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」25弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。26イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。27すると、ペトロがイエスに言った。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」28イエスは一同に言われた。「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。29わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。30しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」

 

 イエスの(神の国に入るのは)「人間にできることではないが、神は何でもできる」という言葉は、人間の努力で神の国に入ることはできないが、神の恵みによって神の国に入れて頂けるという意味だと思います。

 「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか。」とペトロは、イエスに従うことの報酬を求めたのです。

イエスは、自分の持ち物を捨ててご自分に従う者は、報いを受け、永遠の命を受け継ぐと約束します。

 その一方で、「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」と弟子たちに警告しています。

 ペトロはピラトの館で、イエスを知らないと言い、イエスを裏切りました。

 復活の後、ペトロたちに現れたイエスは彼らの裏切りを赦し、福音宣教に遣わしました。

 

 神の赦しの恵みは人間が行うよい行いの報酬として与えられるのではなく、無償の恵みとして与えられるのだと思います。

マタイによる福音

〔そのとき、〕19・16一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」17イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」18男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、19父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」20そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」21イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

 この男がイエスに「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」と訊いたのはイエスを試すためではありません。

 彼は、十戒を遵守できる生活を送ることができる恵まれた環境にいました。しかし、律法を遵守しても永遠の命を得たという実感が得られないので、イエスのもとに来てあえてこの質問をしたのではないでしょうか。

 「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」というこの男の言葉に充足感のなさが感じられます。

 イエスがこの男に、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言うと、この男はイエスのもとから悲しみながら立ち去ります。

 

 「永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいか」という男の問いにイエスは答えていません。

 イエスは、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」と言いますが、そのことによって永遠の命を得ると言ってはいません。

 

 そもそも、何らかの善行を行うことによって永遠の命を得ることができるのなら、人間は自分の努力によって永遠の命を得られることになります。

 永遠の命や、神の救いが人間の努力次第で得られるのなら、神の恵みは恵みではなくなります。

 かつてルターは、人間は善行によってではなく、ただ信仰によってのみ、神に義と認められ、救われると教えました。この教えは、聖パウロがローマの信徒への手紙で強調した「信仰による義」に基づきます。

ルカによる福音

  〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕12・49「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。50しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。51あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

 52今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

53父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」

 

本日のみことばのテーマは「預言者の運命」だと思えます。

 

 第一朗読は、エレミヤの預言です。

 エレミヤは、「涙の預言者」と呼ばれるほど、その生涯を通して多くの苦悩を経験しました。彼の苦悩は、主に神から与えられたわざわいの預言のメッセージと、それを受け入れない人々の反発から生じていました。

エレミヤは神に「あなたはわたしをだました」と訴えました(エレミヤ書20:7)。これは、神の召命に応じた結果が、このような苦難に満ちた人生であったことへの正直な葛藤でした。しかし、エレミヤは最終的に神の言葉に逆らうことはできませんでした。彼は迫害や孤独の中でも、神の言葉を語り続けました。

これがエレミヤの最大の苦悩であり、その苦悩の中で、エレミヤの信仰は強まっていきました。

 

 第二朗読は、ヘブライ人への手紙です。

 聖書と典礼の表紙にあるように、イエスは「恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び」ました。エレミヤは「水だめに投げ込まれ」ましたが、イエスは十字架上の死に至るまで苦しみを耐え忍んだ方です。

 

 福音朗読はルカ福音書です。

 イエスは、弟子たちに「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言います。

 イエスは弟子を宣教に送り出すにあたって「この家に平和があるように」と言いなさいと命じました(ルカ10:5)。イエスが地上に来たのは「平和をもたらすため」に外ならないはずです。

しかし、イエスの意図とは異なり、律法学者とファリサイ派の人々はイエスの言葉を受け入れず、イエスを殺そうと企むようになります。

11章の終わりには「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた(11:53-54)」のです。

イエスの前で人々には二つに「分裂」します。

イエスの言葉を聴いてイエスに付き従う弟子たちをはじめとした人々と、イエスの言葉を神への冒涜であると受けとめイエスとイエスに付き従う者たちに激しい敵意を抱き、殺そうとする人々です。

彼らがイエスに対して抱いた敵意と殺意は、かつてわざわいの預言者エレミヤに向けられたものと同じだったと言ってよいでしょう。

 

 イエスの言う「受けねばならない洗礼」(50節)とは、ご自身の受難と十字架上の死のことです。

 しかし、イエスはご自分の受難と十字架上の死を神ご自身の計画による救いの完成と受けとめました。

今日のイエスの言葉には初代教会が遭遇したイエスに付き従う者たちへの迫害と、それに伴う家族の分裂が背景にあるように思えます。初期キリスト教徒はローマ帝国から迫害されて、多くの者が逮捕され、処刑されましたが、家族による密告によって逮捕されることもあったようです。

 

ひとこと

 雨宮神父は、本日の福音について次のようにまとめています。

 家族のきずなは人間関係の中で最も強い結び付きです。しかし、イエスが来る今、隠されていた家族の間の「分裂」も明らかになります。それは神から離れて自分中心に生きようとする人間存在の生の現実です。イエスは「分裂」を明らかにします。この「分裂」を乗り越えさせるのは、実にイエスその人なのです。