マタイによる福音

19・13そのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14しかし、イエスは言われた。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」15そして、子供たちに手を置いてから、そこを立ち去られた。

 

 イエスに手を置いて祈っていただくために人々が連れて来た子供たちは、病気であったり障害があったりしたのではないかと思います。

 病気や障害を持った子供の親たちは、必死になってイエスに触れていただこうとしてやって来たのです。

弟子たちが親たちを叱ると、イエスは弟子たちをたしなめます。

 一宮教会では大勢のヴェトナム人の親たちやフィリピン人の親たちが子供を連れて聖体拝領の列にならび、子供を祝福してくれるよう願います。そのたびに子供たち一人一人手を置き祝福します。

 

 「天の国はこのような者たちのものである」

ルカによる福音

1・39そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。45主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

46そこで、マリアは言った。「わたしの魂は主をあがめ、47わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。48身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、49力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、50その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。51主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、52権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、53飢えた人を良い物で満たし、

富める者を空腹のまま追い返されます。54その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、55わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」

56マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った。

 

 マリアの祝日に読まれる聖書箇所の中で私が最も感動するのは、このマリアの賛歌です。

 マリアはガブリエルから神の子を宿したことを告げられたとき、親戚のエリザベトが高齢にもかかわらず、妊娠して6ヶ月になっていると知らされます。

 自分の運命がどうなるのかという心配よりは、エリザベトのことを心配して、山里を旅してザカリアの家まで行きます。距離は130Kmから150Kmだと言われます。マリアに同伴者がいたかどうかは聖書に書かれていませんが、妊娠初期の女性に取って覚悟のいる旅だったに相違ありません。

 エリザベトの「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。」という挨拶の言葉は、アベマリアの祈りの二連目になりました。

 その挨拶を受けてマリアは賛歌を歌います。冒頭は日本語では「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。」となりますが、

 ラテン語では、“Magnificat anima mea Dominum, et exsultavit spiritus meus in Deo salutari meo” となります。

 ラテン語を直訳すると、「私の魂は主を大きくする。そして私の霊は私の救い主である神を喜びたたえる」となります。

 Magnificoという動詞は大きくするという意味ですが、一般に主語は神あるいは主で、主が大いなるわざを行うことを意味します。その主の大いなるわざを体験した者が主を賛美するとき、magnificatは主の大いなるわざを賛美するという意味になります。

 アンブロジウスという教父は、マリアの胎内で主が次第に大きく育つのをマリアは実感として感じたと言います。そしてイエス出産後もマリアの胎に宿った神の言葉はさらに大きくなり、ついにマリアの全存在が神の言葉で満たされたとき、マリアは天に上げられたと教会は宣言します。

 

 聖母の被昇天については、女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/sol_0815.php

 

マタイによる福音

 18・21そのとき、ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」22イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。23そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。24決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。25しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。26家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。27その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。28ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。29仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。30しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。31仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。32そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。33わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』34そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。35あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」

 19・1イエスはこれらの言葉を語り終えると、ガリラヤを去り、ヨルダン川の向こう側のユダヤ地方に行かれた。

 

 弟子仲間の不和が極みに達したことで、ペトロは確認しようとイエスのところに来たように思います。

 ペトロは自分が寛容な人間であることを示そうとして、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と訊きます。きっとペトロはイエスから「ああ、それで十分だ。」という言質を取りたかったのでしょう。

 ところがイエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と命じ、たとえを話しはじめます。

 人を赦すのは、七回ぐらいだと覚えていられますが、七の七十倍ということになればもう覚えていることは不可能です。実質際限なく、赦すようイエスは言います。

 私が翻訳をして来たアメリカの神学者のオズボーンは、ペトロに「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」というイエスご自身は何回弟子たちを赦すのだろうかと問います。そして「七の七十倍の七十倍の七十倍・・・・」と述べます。

 際限のない神の赦しに直面する時、赦す神に畏れを感じるようになります。

 

 聖マキシミリアノ・マリア・コルベ神父については、女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=081401