ルカによる福音

 9・51イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。52そして、先に使いの者を出された。彼らは行って、イエスのために準備しようと、サマリア人の村に入った。53しかし、村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである。54弟子のヤコブとヨハネはそれを見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55イエスは振り向いて二人を戒められた。56そして、一行は別の村に行った。

 

 サマリア人とユダヤ人は共通の祖先を持つにもかかわらず、宗教的・文化的に対立していました。

 サマリアの村人がイエスの一行を歓迎しなかったこと、また弟子が「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言ったのはサマリア人とユダヤ人の敵対視のためでした。

 イエスのエルサレムに向けての旅の始めにサマリアの村に入ったのは、神の救いがユダヤ人だけでなく、サマリア人を含むすべての人々に開かれていることを示すためだったのかもしれません。

 

 聖ヒエロニモ司祭教会博士については女子パウロ会ホームページをご覧下さい。聖ヒエロニモは聖書をラテン語に翻訳した人物です。その翻訳はブルガタ訳と呼ばれました。トリエント公会議はブルガタ訳聖書をカトリック教会の公式聖書と定めました。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=093001

ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕1・47イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」48ナタナエルが、「どうしてわたしを知っておられるのですか」と言うと、イエスは答えて、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と言われた。49ナタナエルは答えた。「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」50イエスは答えて言われた。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」51更に言われた。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる。」

 

 ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネがイエスを見つめて「見よ、神の小羊だ」と言ったのを聞いて、洗礼者ヨハネの弟子であったシモン・ペトロの兄弟アンデレともう一人の弟子がイエスの後について行きます。イエスが振り返り、「何を求めているのか」と言うと、彼らは「ラビ、どこに泊まって(留まって)おられるのですか」と訊きます。イエスが「来なさい。そうすれば分かる(見るだろう)」と言うと、彼らはイエスのもとに留まり、シモンに「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言って、シモンをイエスのところに連れて行きます。

 その後、イエスはガリラヤに行く道中で、フィリッポに出会い「私に従いなさい」と言います。フィリッポはナタナエルに会い、「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」と言います。

 ナタナエルが「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言うと、フィリポは、「来て、見なさい」と言い、イエスのもとに案内します。

 イエスがアンデレに言った「来なさい。そうすれば分かる」とフィリッポがナタナエルに言った「来て、見なさい」はギリシャ語では同じ言葉です。

 この場面では繰り返し、「見る」という言葉が使われていますが、目で見るということを超えて分かる、理解するということが含まれているように思います。

 イエスのもとに行き、そこに留まり、見ることにより、イエスに従うことになったとヨハネ福音書は述べます。

 

 聖ミカエル、聖ガブリエル、聖ラファエル大天使については女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=092901

ルカ福音書16:19-31

 19 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」

 

 年間第26主日のことばの典礼のテーマは、「この世の富のゆくえ」だといえます。

 

 第一朗読で、主である神がアモスの口を通して語る、贅沢な人々は、庶民とはかけ離れた生活をしています。こうした生活を送ることができるのはごくわずかの人たちだけでしょう。彼らは「ヨセフの破滅に心を痛めることがない。」と言われますが、それは一体どういうことなのでしょうか。「ヨセフ」は特定の個人ではなく、イスラエルの社会全体を指しているとされます。「破壊」と訳されているヘブライ語は「破壊・破断・破砕」という意味です。

富を独占した富裕層の一部の人間たちは格差、分断社会の現実に心を痛めることがないと非難されているのです。飛ぶ鳥を落とす勢いの彼らには恐れるものはないように思えますが、やがて捕囚の列の先頭に並ばされ、バビロニアに連行されるとアモスは預言します。

 

 先週の福音では、イエスが弟子に「不正な管理人」のたとえを話し、「不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。」(16:9)と教え、「あなたがたは、神とマンモンとに仕えることはできない。」(16:13)と結論づけました。この話を聞いていた、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」(16:14)ので、イエスは「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」と言います。

 

そののち、イエスは「金持ちとラザロ」のたとえを語ります。

 

 イエスのたとえのなかで人名が出てくるのは、ラザロだけです。聖書と典礼の解説にもあるようにこのラザロはエレアザルという名前の短縮形で、「神は助ける」と言う意味です。金持ちが助けなかったラザロを神が助けます。

 

 ルカ福音書は「貧しい者たちの福音」とも言われます。確かにイエス自身も貧しい生活を送られましたし、イエスの周辺の人々もほとんどが貧しい人たちでした。

聖母マリアは「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」(1:51-53)と歌いました。この聖母マリアの賛歌がイエスの「金持ちとラザロ」のたとえの伏線になっているように思います。

 

 ラザロは金持ちの門前に横たわっていましたが、門の内側には入れてもらえず、食卓から落ちるパンくずで腹を満たしたいというつましい希望も叶えられませんでした。ぜいたくな生活を送る金持ちとラザロの間には門が立ちはだかっていました。それが金持ちとラザロを隔てる裂け目となっていました。やがて、ラザロにも金持ちにも死が訪れます。ラザロはアブラハムの胸に抱かれて安息を得ますが、金持ちは、陰府でさいなまれながら、アブラハムとラザロが一緒に宴席についているのを見ると、「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。」と頼みます。

 生きているときは見て見ぬふりをしていたラザロをまるで自分の奴隷のように、金持ちはアブラハムに頼みます。

 アブラハムは「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」と返します。

 生前金持ちとラザロを隔てていた裂け目は、死後ラザロとアブラハムが共にいる場所と金持ちの間の大きな淵となりました。

 金持ちは、兄弟たちのところにラザロを遣わして警告するようアブラハムに頼みますが、アブラハムは「モーセと預言者」(聖書)に耳を傾けるがよいと返します。

 金持ちもアブラハムの子孫ですから「モーセと預言者」を知らないはずはありませんが、その教えとは裏腹な生活を送ったのです。彼は自分の兄弟も同じような生き方をしていると知っていますから、今度は「死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。」と言いますが、「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。」と返されます。

 

 この言葉は大変重いものです。たとえ死者の復活ということを目の当たりにしても、聖書の言葉に耳を傾けなければ、「見ても見えず、聞いても理解できない」(8:10)のです。

 

ひとこと

 フランスの経済学者トマ・ピケティらが運営する「世界不平等研究所」が発表した「世界不平等レポート2022」によれば、

世界の富の約76%を上位10%の富裕層が所有しています。

 世界の富の22%を中間の40%の中間層が所有しています。

下位50%の貧困層は 世界の富のわずか約2%しか所有していません。

 この報告書は、世界の富の格差が非常に大きく、ごく一部の人々に富が集中している現状を明確にしています。

 

 人はどんなに多くの富を所有していても、いつかは必ず死ぬことになります。

 イエスは「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」と教えておられます。